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あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

「非健常者として、健常を問う」

 うえの記事で、ハン・チェユン 2003 「ある非異性愛者、異性愛を問う」『当代批評』夏号(22号)、352-365(朝鮮語)という文章を 紹介しました。

 そこで 紹介したように、ハンさんの文章は、障害を めぐる問題を かんがえるときにも、とても参考になるものです。たとえば、この「ある非異性愛者、異性愛を問う」題名を まねて表現するなら、「非健常者として、健常を問う」と いうことができます。もちろん、それを いうことができるのは、「あなたは健常ではない」と名ざされてきた ひとです。


 とわれる たちばに おかれるのは、もちろん、「自分の からだが 空気のように 感じられる」 ひとたちです。だれしも、サイズの あわない クツを はいていれば、「自分の からだが 空気のように 感じられる」ことは ありません。あるきにくい、いごこちが わるい、しっくりこない…。そういった 違和感から のがれることは できなくなります。


 問題なのは、ぴったりの クツを もっている ひとが たくさん いる 一方で、しっくりこない クツしか もっていない ひとが 存在するということです。ここに不平等が あります。

 うえの記事で 引用した 文章を、あらためて紹介しておきます。

  • 石川 准(いしかわ・じゅん) 2008 「本を読む権利はみんなにある」上野 千鶴子(うえの・ちづこ)ほか編『ケアという思想1』岩波書店 より。


 多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。
 たとえば、駅の階段とエレベータを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベータは車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベータを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる。

 わたしは うえの記事で、つぎのように かきました。


たとえば、右手/左手の きき手を 意識する必要がないのは だれですか。右ききです。右ききは、社会の90パーセントほどを しめています。これは数字の問題ですね。ですが、ちょっと まってください。


 右ききは、社会の ほとんど あらゆるものを 右ききだけのための都合で設計しています。水道の じゃぐちを おもいだしてください。あれは、右ききに都合のよい設計になっています。それを自覚している右ききは、この社会で、どれほど いるのでしょうか? 知識として まなばないかぎり、わかるはずのないものです。

 はさみを おもいだしてください。あれも、社会で流通しているのは右きき用です。


 大路直哉(おおじ・なおや)さんは『見えざる左手-ものいわぬ社会制度への提言』(asin:4883201597)で、つぎのように指摘しています。

  • 「左利きはいまだ利き手を意識せずにはいられない」(19ページ)。
  • 「右利きは、〈右利き社会〉という社会的な磁場のおかげで、利き手そのものを意識することが少ない」(106ページ)。

 これを、「非対称的」というのです。こうした「非対称な関係」にあるのが多数派と少数派です。ただたんに、人数の割合の問題などではないのです。

 このように、多数派にだけ配慮して 社会が つくられているために、「自分の からだが 空気のように 感じられる」ひとたちが 存在します。それは、たくさんの配慮によって なりたっているのです。


 そして、あってしかるべき、おなじく「たくさんの配慮」が ないがしろにされているために、自分の からだを 意識させられる ひとたちが 存在するのです。


 もちろん、はなしは そこまで 単純では ありません。 ひとは だれしも比較します。そして、いろんなことに、よしあしの評価を してしまいます。自分を おとしめてしまうことも あれば、だれかを みくだすことも あります。比較することを 完全に すてさることが できないとすれば、どこかで、だれかが「自分の からだを 意識する」ことになるでしょう。



 けれども、だからといって、なにもする必要が ないわけでは ありません。むしろ、だからこそ 社会のありかたを かえていくことが 必要なのです。認識の わくぐみ、パラダイムを ひっくりかえす必要があるのです。


 障害を めぐって、たくさん ひとが 議論しています。なかには、とても刺激的で 示唆的なものが あります。そのひとつが、うえで紹介した 石川准さんの「配慮の平等」という視点です。


 石川さんは、障害学会の 初代会長を つとめられました。日本で はじめての障害学の 入門書/専門書が でたとき、編者の ひとりを つとめられたのも 石川さんです(『障害学への招待』)。障害学の メーリングリストを 運営されているのも 石川さんです。日本で障害学を かたるときには、石川さんの功績を わすれるわけには いきません。


 さて、それでは 障害学とは いったい なんなのでしょうか。障害学の キーワードを ひとつ あげるとするなら、やはり、「障害の社会モデル」でしょう。
 たとえば、わたしは 障害の社会モデルという 視点を、「漢字という障害」という論文に まとめています。

 この論文では、障害の社会モデルを つぎのように 解説してあります。


漢字をよんだり、かいたりできないのは「そのひとが障害者であるから、無能力であるから」とみなすのが医療モデルである。一方社会モデルは、漢字こそが障害(社会的障壁)であり、漢字が「文字をよみかきできなくさせている」のだとみなす。
(158ページ)


 もちろん、日本語の文字や よみかきを めぐる問題は、これほど単純な はなしでは ありません。それは、わたしが これまで 何度も 論じてきたとおりです(論文一覧)。


 ですが、障害の社会モデルの説明としては、これで じゅうぶんではないかと おもいます。


 障害学とは、障害者が その中心になって、社会の ありかたを といなおすものです。これまで障害者運動が うったえてきたものを、学問の世界に もちこみ、従来の学問を ゆるがし、そして社会制度を かえていくためのものです。


 そうした性格を もつ 障害学を、興味ぶかい議論として「消費」するだけで おわらせてしまってはなりません。だれもが、障害学を つむぎだしていく 一員になる必要が あります。それは、おなじ社会を いきているものとして、そして、たくさんの配慮を ずっと 要求しつづけ、そして現に配慮されつづけている 側としての 宿題なのでは ないでしょうか。なにも、だいそれたことを しなくても いいでしょう。


 「わたしが健常である」とは、どういうことなのかを、すこしでも みつめてみること。いろいろな ひとたちが 存在することを あたりまえと うけとめ、そして、だれもが くらしやすい社会を のぞむこと。そして、わすれられてきた配慮を きちんと提供していくこと。それぞれが、それぞれの位置から、やれることが あるでしょう。


 「健常者なんて存在しない」。あるいは、「障害者など どこにも いない」。それは重要な といかけであるし、たいせつな視点です。ですが、それが たんなる スローガンに おわらないようにするためには、実質的に、社会のありかたを かえる必要が あるのです。

  • 「非健常者として、健常を問う」

 そのような といかけが、つきつけられたとき、あなたは、どのように うけとめ、そして、なにを かんがえますか?





 それを 正面から こたえた本が、2冊あります。

 わたしも、具体的な はなしを 通じて、あとに つづきたいと おもっています。


(つづく)


リンク:もうやめようよ!障害者自立支援法10.31大フォーラム