hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

自閉症と主体性。

 ローナ・ウイングは『自閉症スペクトル』において、自閉症者の社会性の障害(「社会的相互交渉の障害」)を「孤立群」「受動群」「「積極・奇異」群」「「形式ばった大仰な」群」の4つのグループに分類している(43-46ページ)。


 一般的な自閉症 理解からすれば、「孤立群」「受動群」はイメージしやすいだろう。一方で、「「積極・奇異」群」や「「形式ばった大仰な」群」の場合、知的障害者とだけ認知され 自閉症者であることが 気づかれないことがある。だが関係を かさねていくことで、自閉者に共通する「こだわり」のありかたに気づかされ、「自閉症」が ゆるやかな「家族的類似」によって構成されているのが わかる。


 はい。むずかしい おはなしでスタートしました。



 今回は、つぎの記事を とりあげながら、主体性とは いったい なにか、ということについて かんがえてみたいと おもいます。


主体的って、どういうことでしょう。自主性の尊重とか いいますけれど、積極的とか、自主的、主体的。いつも肯定的に とらえられているけど、その逆の状態は、よくないこと、あまり肯定できないことなのでしょうか。


ここにかくことは、わたし自身が あまりに自主性を評価してしまっている点を反省し、主体的とは どういうことかをとらえなおす作業です。そのため、ひとりづもうを披露することになります。ですが、こうして それを公開する以上は、みなさんにも うけとめていただきたいという ねがいが こめられています。そういうことで、よろしく おねがいします。
…中略…
ひとりの自閉者が いるとします。認知能力は「比較的に」たかいと いえますが、いつも「声かけ」をまっています。顔色をうかがうように支援員に 顔をむけ、声かけをまつのです。そうしないと うごけないことが日常の生活のなかで、かなり あるわけです。

わたしは、あなたは、このひとに むきあいます。そして、かんがえるのです。これは、どのように かんがえたものだろうか。


 さて、どのように かんがえますか。「積極的な自閉者も いるのに、このひとは受動的で よくない」。そんなふうに感じますか? どうでしょうか。


いちばん すてきな こたえは、「そのまま うけいれる」ということでしょう。そして、積極的、自主的、主体的ということをあまりに肯定的に評価する視点を、反省してみる必要があるのでしょう。


けれども、ちがった視点もありうるでしょう。


そのひとは、支援員の声かけをまつとき、それが あからさまに わかる表情をします。無言で、うったえかけてくるのです。これが、積極的な表現でなくて、なんでしょうか。そうすると、わたしの「積極的」の とらえかたが、あらためて とわれることになります。


 まとめると、つぎのように いえるかと おもいます。


積極的、自主的ということをあんまり肯定しすぎないこと。これが大事です。そして、依存的、受動的にみえるひとの行動も、よく みてみると そこには積極的なところが みつかるということ。それを「よみとること」が重要なのだといえるでしょう。


 つまり ここで「主体的」というのは、いったい なんなのか。どのようなことを さすのかという問題に ぶつかるのです。これは、ほとんど正解など ないのかもしれません。けれども、ひとりひとりが、その場その場で 結論を だすしかないように おもいます。なぜなら、わたしたちは いつも、だれかに評価を くだしているからです。意識的であろうと無意識であろうと、だれかを「評価する視点」から、ほとんど のがれることが できずにいるからです。
 つよい個人であれば、自由に行動する主体でいられるでしょう。だが、それほど つよい個人であるならば、主体的になりきれない ひとのことを、すこしは かんがえてみても よいはずです。


 だれもが「自分の あたま」で かんがえることができる。だれにも行動力がある。そんなのは、おもいこみです。それは能力主義の発想です。自由と主体性を つよく支持していられるのは、健常者中心主義の どまんなかに いるからではないでしょうか。


 それでは、どうするのか。


 たとえば、鯨岡峻(くじらおか・たかし)は「コミュニケーションの障害」を「機能障害」の問題に おしこめることに疑問を なげかけている。鯨岡は、つぎのように のべています。


私たちはコミュニケーションの障害を子どものもつコミュニケーション機能の障害として子どもに帰属して考えがちですが、どこまでが子ども「本来の」障害なのでしょうか。障害と捉えていることのなかに、子どもと関わる人(自分)との関係が難しくなっていることが含まれていないかと問うてみると、答えにくい場合がしばしばあるのに気づきます。…中略…
…私たちは暗黙のうちに健常者の機能を基準にとり、それに達している、達していないで「障害」を考えてきていたことが示唆されます。…中略…「コミュニケーションの障害」はもっぱら障害をもつ人の機能に帰属される問題として考えられるべきではありません。むしろ二者の関係が差し当たり難しくなっているという、より広い意味において考える必要があるのではないでしょうか。
(鯨岡 峻「関係が変わるとき」『コミュニケーションという謎』174-175ページ)


 結論を のべるなら、「主体の共同性」にむけて、たすけあう社会を めざしていく必要があるかと おもいます。それはつまり、個人主義イデオロギーを 克服し、すべて「個人」を単位にして かんがえる発想を ぬぎすてようということです。


 わたしたちは、自分を 基準にして かんがえることを やめることはできない。自分の常識に もとづいて ものを かたることしかできない。だが、それならば、もっと たくさんのひとに、たくさんの主体に、であっていく必要があるのではないか。人間の多様性を しらないままに、「自由と主体」を ほめたたえるのは、自文化中心主義ではないだろうか。

 だれもが おとしあなに はまってしまう。わたしも いつも、はまってしまう。苦笑しながら 気づかされることもあるし、ひとに指摘されることもある。けれども、気づかないまま すぎていくことが、ほとんどなのかもしれない。おそろしいことです。


 個人主義というものを、あらためて といなおす必要があります。



 社会のなかで、ひとは いきている。


 わたしには、いろいろなことが わからない。だから、ここに かく。読者の みなさんに といかける。わたしには わからない。



 主体性とは、いったい なんですか。


リンク:



追記:


id:junkietaさんが、はてなブックマークで つぎのように コメントしてくださいました。ほんとうに おっしゃるとおりで、感動しました。するどいコメントを、ありがとうございました。


"つよい個人"ではなく、「よわい個人」が権力から奪い取るもののことを、"自由"とか"主体性"と呼ぶのでは。"つよい個人"にはもったいない言葉という気がする。