hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

追記:わたしの属性について

「[社会] おそまつな選択肢(在日か、日本人か)。」という記事は、はてなブックマーク - しねよ カス! - やねごんの日記のコメントを きっかけにして、かいたものです。そこに わたしは、つぎのように かいています。


なんちゃって朝鮮語講師の わたしも、在日認定されやすいです。/在日という いいかたが ひどいのは、「一時的な滞在」だと みなしているところ。「朝鮮系日本人」という発想を ゆるさないというか。選択肢としてね。
これを、きちんと明記しておいたほうが よかったのかもしれませんね。


わたしは朝鮮系ではありません。


わたしにとっては、「こいつは在日なのか、日本人なのか」特定したくて しかたがないという心理もまた、興味ぶかいのですけれども。特定しないことには、なにも感想が かけないというか。


わたしは、「日本社会のありかた」を批判したんですから、わたしが だれであろうと、その批判にたいして、なんらかの感想をいだき、コメントをかくことは できるはずです。

もちろん、たち位置(ポジショナリティ)の重要性といった議論は、承知しています。けれども、どのような立場からであろうとも、いえることがあるし、指摘できることがある。批判すべきことがある。それが わたしの信念です。


わたしは、おさないころから「朝鮮人をばかにする歌」を おしえられてそだった。その記憶をわすれずに、差別を批判していきたいと おもっています。

ちなみに、わたしは しいていえばアメリカ移民系です。祖父母がアメリカ移民ですから。戦争まえに「でもどり」したので、父親は日本うまれですが。


「ちょうせん(朝鮮)」という表現を積極的に つかうのは、南北を分断しない「総称」として、朝鮮という表現をつかいたいからです。

日本語では朝鮮半島という表現が定着しています。だから、南北をわけずに総称する表現は、朝鮮で いいと おもっています。もちろん、「ちょうせん」という表現を きらっている韓国系のひとたちが いることは承知しています。具体的なコミュニケーションでは、わたしも韓国と朝鮮を つかいわけています。それは「ことばのマナー」としては たいせつだろうと おもうからです。


この点は、むずかしいですけどね。コリア系という表現をつかうのも、たしかに代案ではあるのですが。


わたしが「中国語」や「韓国語」という表現をさけるのは、社会言語学的にいって、問題ぶくみの表現だと おもうからです。「何カ国語はなせますか?」といった表現とおなじことで、国家語のみをもって言語であると認識する発想は、言語学的に成立しえないのです。それは、田中克彦(たなか・かつひこ)が『ことばと国家』岩波新書で力説したとおりです。