hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

「ありがたい」ということ。

 きょうは、ふたつの「ありがたさ」について。

 うえの記事で、定住朝鮮人の かたの つぎのような ご発言を 紹介しました。

  • 韓国に いって同胞(在日)だと いうと、なんだ ことばも しゃべれないのかと非難される。
  • 最近は学習して、日本人だと いうことにしている。そしたら、ウリマル(われわれのことば)が わかるのかいと、よろこんでもらえる。

 これは、これまで 何度となく くりかえし指摘されてきたことです。たとえば、日本人が 韓国に いって 「いきなり日本語」を はなすことはあっても、その逆はない。
 日本人が 朝鮮語を まなんで感謝されることはあっても、その逆は すくない。
 

 夫が 家事を てつだうことで 感謝されることはあっても、妻が 家事を することは当然であると おもわれている。感謝されるのは、いつも、「ほとんどしない」 ひとたちの ほうなのです。いつも している ひとは、あたりまえ。たまに する ひとは、「ありがたい」。


 ここで、「ありがたい」とは「めったに ない」という意味でしかありません。けれども、それを「ありがとう」と表現するならば、もはや「めったに ない」という現実は、なかったことにされてしまいます。感謝の きもちだけが 相手に むけられることになるのです。


 これはつまり、「なにも しないことで、ありがたさを 演出している」のです。なんと不公平な はなしでしょうか。


 わたしのペキン語の 先生は、おもしろい はなしを おしえてくださいました。その 先生が、友人である チャンさんに コーヒーを おごる。それは、あまりにも あたりまえすぎることなので、チャンさんは お礼など いわないのだという はなしでした。先生は、その関係を ほこらしく 感じておられるように みえました。


 多数派が 少数派にむけて なにかを することで、感謝を されるということ。「ありがとう」と いわれて、よろこんでいられるほど、多数派が きづきあげている この社会というものは、うつくしいものでは ありません。どんな ささいなことであれ、それが「ありがたい」と 感じさせてしまうのであれば、それだけ、社会の ありかたが おそまつな状況にあるということです。それを あらためて確認しなおすことなしに、「ありがとう」という ことばを うけとることなどできません。それが「めったに ないこと」であり、多数派は いつも「なにも しない」からこそ、それが「ありがたい」ことになり、「ありがとう」になるのです。


 日本人が 朝鮮語を まなぶことは、ほとんどないからこそ、ほんのすこししか わからなくても、「ウリマル(われわれのことば)が わかるのかいと、よろこんでもらえる」のです。


 これは手話についても、いえることです。はたして、「手話が わかる」とは、どのレベルを さすのでしょうか。もちろん、ひとそれぞれでしょう。けれども、おおくの日本人が「英語が わかる」というときのレベルと くらべるならば、「手話が わかる」のハードルは、あきらかに ひくいように 感じられるのです。
 たとえば、たくさんの ろう者が あつまって 手話で会話を しているのを みて ほとんど理解できなければ、その ひとは「手話が できない」と みなされるかもしれません。しかし、一対一で 会話するときは、ろう者が 相手(聴者)に配慮し、その ひとが 理解できるように手話を します。そのため、その聴者は「わたしは 手話が わかる」と かんがえるかもしれない。その聴者にとって、「手話」は 手や指をつかった日本語であるかもしれないし、手話コーラスも「手話」であるかもしれない。しかし、そのような「手話」と「ろう者の言語」は 明確に ことなることを 理解する必要が あります。


 すこしでも ありがたがられてみれば、ひとは うれしくなります。そして、得意げな 気分になります。いつのまにやら、満足してしまいます。そうやって、わかることの ハードルが、さげられていきます。ですが、これまで多数派は、たとえば少数派の日本語について、どれほど寛容であったと いえるのでしょうか。


 これまで 多数派(聴者)は、みみの きこえない ろう者に、くちびるを よむことを おしつけ、そして、自分には きこえない声によって はなすことを、おしつけてきました。きいたこともない、そして、きこえない言語を まなばされるという経験を、だれが もちたいと おもうでしょうか。ですが、現実に ろう学校は、読話(どくわ)と口話(こうわ)を おしえる 空間として 位置づけられてきたのです。やっとの おもいで成立したのが、東京の 明晴学園です。「明晴学園は日本で唯一のバイリンガル・バイカルチュラルろう教育を行う私立学校です」。


 ろう者が 手話で 教科を まなび、そして、音声言語の かきことばを 学習すること。たったこれだけのことが、これまで みとめられてこなかったのです。そして、いまなお、口話主義の現実は つづいているのです。


 多数派が やっていることは、あきらかな差別です。最近では、ことばに かかわる差別を、「言語差別」と よぶようになってきました。わたしは、多数派は、言語差別の つみかさねと、ほんのすこしの配慮によって、「ありがたさ」を 演出しているというわけです。


 社会を 支配しつづけるかぎり、多数派は なにをしようと、心地よく すごすことが できます。

 社会を 支配するということは、少数派から あらゆるものを 「うばいとったあとで、ほどこす」ことで、「ありがたさ」を 演出し、「感謝される」構造に 自分たちを 位置づけるということです。

 多数派が 身を おいている社会の構造というものは、自分たちだけは あたりまえのごとく配慮し、そして、「一部」(少数派)を つくりあげ、障害化し、そのうえで「特別な配慮」と称して ほどこすというものです。


 そして、うれしそうに 指摘するわけです。「それは逆差別だ」と。「ほとんどしない」、「めったに ない」、そして自分たちだけ「あたりまえのごとく配慮」してきたこと、そんなことを すべて すっかり わすれたうえで、名前の ない 多数派が、名前を もつ 少数派に、「特別な配慮」や「逆差別」を ねたんでみせるのです。ほんとうに、よくできた 手口です。


 多数派が いくら 少数派に 共感を よせたとしても、自分の おかれた社会の構造というものに自覚的にならなければ、なにも はじまらないのでは ないでしょうか。そして、多数派が 社会の ありかたを かえていくことなしに、少数派に「共感する」ことなど、できないことでは ないでしょうか。



 つぎに、「ありがたい」と 感じる心理について、かきたいと おもいます。


 むずかしい ことばを つかうならば、希少性(きしょうせい)と いわれます。


文字の希少性は、「だれもが文字を所有しているわけではない」、ということに由来する。


いまの日本社会は、文字をよみかきできることが当然だと おもわれています。よみかきできることを前提にして社会が つくられてしまっています。

 近現代社会は、「だれもが よみかきできるはずだ」という根拠のない固定観念によって成立しています。いま できなくても、学習すれば よみかきできるようになるはずだと みなされています。いつのまにか、文字の よみかきは「自然」と みなされるようになったのです。


 ですが、たとえば 糖尿病によって 失明した場合、点字の 触読(しょくどく。さわりよみという意味)を 身につけることは、ほとんど 不可能です(弱視者の読書権を めぐって。 - hituziのブログじゃがー)。


 それならば、だれもが よみかきできる社会など、永遠に おとずれることは ありません。それは、知的障害者を もちだしてみても、だれにでも わかることです。それにも かかわらず、学校という空間では いわゆる「学習障害」を うみだしつづけています。なぜでしょうか。それは、よみかき計算を、人間にとって「自然」で「あたりまえ」であるという発想を、いまだに のこしているからです。人間の多様性に 注意を むけるならば、学校という空間は、ペーパーテスト(筆記試験)だけを もってして「学習者を テストする」などということは、とっくの むかしに やめていたはずなのです。


 社会を 支配する側は、「自分たちが テストされる」ということを、想像することすらできません。学校の教員は、人間の多様性についての 基本的な知識を とわれることなく すごしていられたのです。


 あたりまえではない 文化によって 人間の能力を テストしようとする 学校というもの。それは、おぞましい空間です。なぜなら、本来、ひとが ひとを 評価し 点数を つけるということ じたいが、おぞましい ふるまいだからです。


 学校という空間で おこなわれているものも、コミュニケーションの ひとつであるならば、わたしたちに いえることは、ごく かぎられているはずです。


いま現に、わたしたちは審査員です。「コミュニケーション障害」というものを、だれかから感じとってしまう以上は「審査員」に ほかなりません。けれども、審査員をやめましょう。おりましょう。たとえば、あなたはミスコンの審査員になりたいですか。なりたいひとは、そうでしたか。なるほど。なりたくないひとは、どうですか。審査員は いやでしょう? 審査員をやめましょう。


そして、コミュニケーションに点数をつけるのをやめましょう。ただ、わたしにとって こういうコミュニケーションは都合が わるい、わたしの利益に反する、だから いやだとか、そういう いいかたをしましょう。


コミュニケーションに障害は、ありえないのです。

 わたしたちに いえるのは、「わたしにとって こういうコミュニケーションは都合が わるい」「わたしの利益に反する」「だから いやだ」までであり、それが 限度では ないでしょうか。


 ひとは だれでも コミュニケーションを とります。コミュニケーションの かたちは、ひとの 数だけ 種類が あるでしょう。そこに、希少性(すくないが ゆえに価値がある。独占されているが ゆえに 欲望される)というものは、存在しないのです。


…言語帝国主義は「もしたったひとつ言語だけが身につけられるとしたら、あなたはどの言語を選ぶか」という脅迫的な問いを話し手に投げかけつづける…中略…。もちろん、「メジャーな言語」「威信のある言語」という答えが返ってくるのはお見通しである。
 近代社会における「言語の乗り換え」がけっして無垢な場の「自然な」できごとでないのは、言語を稀少な財とみなす希少性原理が「言語の乗り換え」を加速化させるからである。稀少性は個人に「欠如」の意識とそれを満たそうとする欲望を同時に生じさせる。「特定の言語―たとえば英語―が話せない」ことを、何らかの言語的欠如と感じるからこそ、ひとはみな「自発的に」支配言語を学ぼうとするのである。
(385ページ)


 たいせつなのは、コミュニケーションに 点数を つけないことです。


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