hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

わからないこと(矛盾について)。

だれかにたいして、「いってることが矛盾しているのではないか」と指摘したくなるときがある。じっさいに「矛盾してませんか」と指摘しなくても、「矛盾してるじゃないか」という疑問を動機にして、だれかに問題を提起することがある。

そして、わたしが だれかに矛盾を指摘されたときには、ただの非難のように感じられて、まともに反応する気が うせてしまうこともある。もちろん、ああなるほど、そのとおりだなあと感じることもある。けれども、いつもいつも納得できるわけじゃない。

それは、自分が かわいいからか。そうではないのか。


よく わからない。


基本的には、矛盾を指摘するのは くだらないことだと おもっている。けれども、そのひとが気づいていないであろう なにかについて、ちょっとだけ指摘する。そうすれば、きっと共感して わかってもらえるだろうと期待したうえで、なにかを問題提起する。それって、たいせつなことではないだろうか。

それは相手に なんらかの矛盾を感じてのことだ。けれども、こちらが ちょっと指摘するだけで、あとは相手が すんなりと問題を把握してくれるだろうという期待をこめての といかけであれば、それは非難であるというよりも、たのしい議論になるはずだ。ひびきあう議論になるはずだ。


ひとが いきていれば、どこかで矛盾してしまうのは当然のことで、なにも わるいことじゃあない。けれども、まったく気づかないうちに、自分でも ほんとうは したくもないことを、わたしたちは あれこれ してしまう。してしまっている。

矛盾に自覚的であることもあるけれども、一方では、指摘されないかぎりは気づけないことがある。


矛盾が悪ならば、わるいことであるならば、わたしたち すべてが断罪されねばならない。だけど、わたしたちは神様じゃない。どこにも、神様なんて いない。神様が いたとしても、神様の代弁者なんか いやしない。


けれども、わたしたちは 矛盾する存在でありつつも 同時に、矛盾しないように努力することができる存在ではないだろうか。

やっぱり、結論は いつもと かわらない。わたしたちは、おたがいが ゆさぶられ、ひびきあうことが できるように、つながっていかなくちゃあいけない。議論し、コミュニケーションを つづけ、ひびきあって いきていかなくては いけないものよ。


「どうして?」

そうね。よく わからない。なぜって いわれたら、口ごもってしまう。

けどね。わたしは、そうしたいの。そうやって いきていきたいの。

へへ。