hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

どなるということ。

ひとごとじゃないから。 - hituziのブログじゃがーの つづき。




 おきた。


 結局、学校にも施設にも、「生活指導のひと」が いるんだなあと おもった。やかましく、きびしいひと。そういう役割期待がある。じっさいに期待されている以上に、本人が自負心を もっている場合もある。過剰適応というのだろうか。「わたしが いないとだめなんだ」という気負い(きおい)と いっても いいだろう。


 どうして どなるのか。おおきい声は だしてほしくないのに。



 それは、はなしが通じるからこそ どなるんだと おもう。まったく はなしが通じないときには、どなったりしない。どうにもならないときには支配しようとはしない。


 どなれば、つたわるという実感を もっているからこそ、どなってしまう。けれども それは一時的な効果しかなく、おなじことの くりかえしになる。そこで、「ああ、つたわっていないんだ」「つたえかたが まちがっていた」と わかれば いい。けれども、それでも これでいいと ごりおししてしまう。


 あきらめることができないということ。いくら熱心に なにかを つたえるにしても、ある一面では あきらめるということが なければ、あとは「相手を 意のままにする」ということが至上目的になってしまう。けどね、支配欲は しんどいだけだよ。あきらめて いいんだよ。あきらめることも必要なんだよ。



 どなるのを よこで みていて、やめてほしいと つたえる。しかし、こちらに力はなく、どなるひとには力がある。わたしは無力だということを 痛感させられる。あきらめさせられる。


 どこかでは、あきらめる。しかし、理念を もつ わたしは、あきらめきれない。それは おかしい。ちがう。まちがっている。だから、もう一度 つたえる。けれども、つたわらない。



 これは しんどいと おもった。