hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

「わたしは いやだ」ということ。

公平とは なにか。 - hituziのブログじゃがーの つづき。


 ずっとまえにブログで紹介したことがあるが、金 伊佐子(キム・イサジャ)さんの「在日女性と解放運動―その創世記に」『前夜』4号(2005年 夏号)という文章が わすれられない。一部だけ紹介する。

代弁する前に自身の有り様を問い直し、周囲の日本人の意識変革、社会変革を実現してほしい。自身の意見と立場で放つ意見は他者の代弁よりも説得力をもつだろう。

(119ページ)

日の丸や君が代を「在日外国人もいる」ことを理由に反対されるのは困ったものだ。人をだしにせず、はっきりと自分がイヤだから、強要される非民主性がイヤだから、その歴史性や社会政治性を拒否するからと自分の立場で反対してほしい。…中略…日の丸や君が代は日本の、日本人の問題である。自分のふんどしで相撲をとってもらいたい。

(120ページ)


 わたしが いやだと感じるから反対する。わたしは いやだと主張する。たったそれだけのことが できていないのではないか。そのように感じて、それまでの自分を 反省しました。


 物理的には、日の丸を 排除するなど できるわけがないことだと おもいます。デモなど、たまたま自分と相手が おなじくらいの人数のときに「なんで日の丸なんか もってるんだ」ということはできるでしょう。けれどもそれは 場あたり主義的で ご都合主義でしょう。肯定的に いえば、ささやかな抵抗でしょう。


 まちなかに あふれかえっている日の丸を、「いやだ」「きらいだ」という主張で なくせるわけがない。右翼のデモで あふれかえっている日の丸を、どうにかできるわけがない。


 でも いやなんだよ。それでも、やめろというんだよ。そうじゃなかったら、理念なんて 最初から もってないってことになる。


 どのような社会を 構成するのが のぞましいのか。「公平な社会」とは、どのようなものか。それを かんがえる立場にあるなら、日の丸排除なんて主張できるわけがない。政治家であれ、政治理論の研究者であれ、法学の研究者であれ、対立するふたつの立場のうち どちらかを「排除する」ということを かんたんに主張できるわけがない。できるのは、「国旗を かえる」とか、「国旗を 廃止する」という、わくぐみそのものを かえることだけだ。


 そういった立場ではないと自分では おもっているから、「わたしは いやだ」と主張する。そういった立場にならないということは無責任であると わたしも おもう。そして、たとえば わたしがユニバーサルデザインを 論じる文脈では、「どちらも排除しない」ことを 前提にして議論を すすめている。そして、結果として排除される ひとは それでも のこるということを ふまえて論じている。


 個人の意見として、いやだと主張する。社会が どうであろうと、「わたしは 日の丸が みたくない」と主張する。


 毎日のように わたしに日の丸を みせている社会にたいして、「わたしは 日の丸が きらいだ」と意見を いう。



 つい最近、「わたしは このような社会が のぞましい」と議論している ひとが、具体的な問題について個人的な見解を なにも いえないというのを みて、残念に感じた。「自分の立場からすると、どちらとも いえない」ということはある。なにか具体的な意見が いえなくなる立場というのはある。けれども そうではなくて、かんがえたことがない、かんがえる気がないという印象を もった。残念なことだと おもう。


 ほかにも、社会運動を している ひとが「自分たちは権力じゃない」「影響力なんてない」というのを みたとき、それも残念に感じた。そんなわけないでしょう。


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