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あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。

 ヤマト人は にげる。「民族は つくられた概念で、実体は ない」と相対化する。おきなわ人に「ヤマト人」と よばれても、アイヌ人に「和人」と よばれても、そんな実感はないし、民族意識など もっていないと いえてしまう。


 国家において、「民族」を 意識させられるのは、いつもマイノリティである。差別制度が、日常的な差別が、マイノリティに「民族」を 意識させるのだ。


 それを 指摘し、多数派日本人に「ヤマト人」や「和人」という名前を つけてみても、「名前のない多数派」は にげてしまう。「民族意識など、幻想にすぎず、そして わたしは「ナショナリズムに反対する」」のだと。そんな態度が良心的だと、なぜ おもえてしまうのか。



 多数派は、名前を つける側である。そして、多数派は名前を もたない。多数派は、名前を つけられるのを いやがる。自分たちは、だれかにたいして、くりかえし やっていることなのにだ。
 民族は社会的に、歴史的に つくられたものだと いえば、自分たちは これまでどおり、名前のない「だれでもない個人(ノーバディ)」で いられる。無徴(むちょう)で いられる。


 多数派は、にげる。多数派には主体がない。名前を もたないから。いち個人で いられるからだ。多数派は、「わたし」でしかない。けれども、名前のある少数派を 非難するとき、多数派は、みずからの集団意識に であうことになる。ほんのすこし。ほんのすこしだけ。その名前は、「日本人」。


 日本人とは、国籍を さすのか。民族性を さすのか。文化か。言語か。血液か。どれでもない! すべてを うやむやにした「日本人」なのだ。あいまいな、自由な日本人なのだ。
 なかには、その名前に、さらに あいまいな ことばを つけたす ひともいる。そう。「ふつうの日本人」。



 民族差別を かんがえるとき、かたほうだけに 民族の名前を つけてしまうと、そこで「民族差別」とは、文明と野蛮(やばん)の差別を 意味する。「普遍的な われわれ」と「特殊な野生人」の差別を 意味する。おなじ土俵に たたないことを 意味する。


 そう。多数派は にげるのだ。民族なんて、幻想だよと。都合の いい理論だ。もし、そのような意味で「民族は幻想だ」という議論が あるのなら。だが、しっておいてほしい。たとえば『民族という虚構』という本は、そのような議論は していない。幻想だと指摘して、それで おわりではないのだ。幻想でありながらも、その幻想に もとづいて、この社会が つくられている。社会制度も うごいている。たいせつなのは、民族という虚構から、にげることはできないということだ。その責任から にげることはできないということだ。


 それでも そこから にげようとするのは、「名前のない国民」か、「普遍的な存在」である。もちろん、普遍的な思想を もつのも わるくない。それも理想の ひとつだ。けれども、それは少数派には名前を つけたまま、自分たちは名前から自由でありたいという欲望だということを、わすれてはならない。



 わたしは、自由になりたい。だが、野蛮を かたる文明人には なりたくない。ここまで かいて痛感するのは、わたしは自由だということだ。



 だれかの不自由に依存した自由。それが、民族の名前のない「日本人」の自由だ。


 はきけが しようと、いやだろうと、あなたが国際人であろうと、アナーキストであろうと、民族の名前を ひきうけよう。民族差別を 解体するために。ごーまんな文明人として ふるまうのを やめるために。
 民族フリーのヤマト人は、ヤマト人という名前を きらう。和人という名前を きらう。それが特権であることを わすれて。日本社会における民族差別の構造は、多数派が自由な立場に しがみつくことで再生産されている。にげる。にげる。にげる。


 ああ、民族とは だれかのことだ。他人のことだ。「わたし」には「民族」なんかないからだ。民族など、むかしばなしだからだ。わたしは日本人であり、現代人である。ヤマト人? なんのはなしだ。わたしはナショナリズムは きらいだ。

 そういう にげみちを つくる ひとに、無徴主義(むちょうしゅぎ)という名前を あげよう。


 無徴主義者に名前は いらない? いや。だから名前を つけるのですよ。



 差別を かんがえるためには、不平等を かんがえるためには、関係の非対称性を あきらかにする必要がある。多数派と少数派は、立場が あざやかに ちがう。けれども、多数派は それに気づきにくい。それは、自分たちが「みたくないもの」を 排除しつづけてきた歴史があるからだ。



 もちろん、民族意識は、つくられたものだ。集団意識は、つくられるものだ。だが、そこに こたえが あるわけではない。それは結論ではない。それは、議論の出発点にすぎない。



 なぜ少数派の民族意識が注目を あび、多数派の集団主義が意識されないのか。なぜ、だれかには民族意識が めばえ、また だれかには「関係のないもの」と おもえてしまうのか。


 少数派には名前がある。多数派には名前がない。



 「ふつうの日本人」に にげこむ ひとたちに、質問しつづけよう。かんがえよう。かんがえさせよう。名前を うけとめ、責任を ひきうけ、自分の特権を あきらかにし、内側から「顔のない集団主義」を 解体しよう。


 だれでもない立場に にげこむことなく、歴史と責任を せおった集団の一部として、関係を むすびなおす努力をしよう。


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