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あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

なんのための構築主義か(少数派のアイデンティティについて)。

 うえの記事の、最初の部分に違和感がありました。全文は うえのリンク先を よんでください。一部分だけ引用します。


 前に書いた


 真に他民族を尊重するということ - Danas je lep dan.


 の補足のようなもの。


 ぼくは前々から構築主義※1を支持しながらアイヌなど少数民族の民族復興運動をも同時に支持している事について矛盾があるのではないかと感じていて,その二つの立場の整合性を取ろうとしたのが前掲エントリなんだけれど,図書館で雑誌をパラパラとめくっていたらしっくりくる表現を見つけた。



※1:構築主義と本源主義の違いについては,本質主義と構築主義 - Danas je lep dan.を参照。


 「構築主義を支持」するなら、「アイヌなど少数民族の民族復興運動をも同時に支持」するのは「矛盾」でしょうか。そんなことはありません。

 この放送で、わたしが はなしたことにも関連するので、アクセスできる ひとは きいてみてください(30分以降)。そうでない みなさんは この記事を よんでください。



 境界線が恣意的(しいてき)であるということと、いま現に差別があるということは別のことです。そのカテゴリーが恣意的であろうとも、そのカテゴリーは、いま現に差別に利用されているわけです。差別される側として、そのカテゴリーに属している ひとが「わたしたち」を 意識するようになる。


 アイヌというアイデンティティが なぜ意識されるのか。それは排除が あるからです。もし、排除が なければ、だれにも名前はありません。みんなに名前がない。


 血のない人間は いません。だから、血のない人間を よぶ名前などありません。そして、たぶん、髪の毛よりも まつげのほうが ながい ひとも いるでしょう。けれども、わたしたちは だれも、「髪の毛よりも まつげのほうが ながい ひと」に 名前を つけようとは おもわないし、そもそも そんなことに注目したりはしません。ましてや、差別しようなどと、おもったりはしないのです。
 けれども、可能性として、そういう名前や差別は ありえるのです。「デブ」だの「メタボリック」だの、「ひとえ」だ「ふたえ」だ「おくぶたえ」だという区別が存在するようにです。「おくぶたえ」って、そんなもん、この社会で「ふたえ」が「ひとえ」よりも「優位」とされていなければ、意識されるわけがありません。



 「定義」を 勝手にきめてきたのは、だれですか。「日本人の境界」を 勝手に きめてきたのは、だれですか。差別する側だ。権力だ。


 境界線を ひいてきたのは、いつも差別する側です。それにも かかわらず、「アイヌの定義を いってみろ」という ひとがいる。


 歴史を みましょう。


 経済力と権力を独占する側が、だれかの「ちがい」を 否定的に おとしめる。そのうえで、相手を 自分たちに同化させる。そして、同化させてなおかつ、「ちがい」の過去を 記録に のこす。「むかしは ちがっていた」ということを、都合よく おもいだして、もう一度 排除する。そして、排除された側に もう一度 同化させる。どうやって? 構造の力で。
 つまり、制度化された差別によって、身うごきを とれなくする。その状態から脱する方法を「同化」以外に みとめない。そうすることで、強制的に同化させるのだ。無言のまま。なにも いわずに。空気のファシズムは、なにも いわずに、少数派に同化をしむける。このようにして、何重もの差別が かさねられていく。そのような社会は、おそろしいものです。少数派にとって、自分の正体を うちあけることは、どんどん むずかしくなっていきます。


 「自分の正体」? ねえ、ちょっと まってよ!


 いつも正体を あかさないのは、ふつーの顔をして、この社会を 空気のように感じて、なに不自由なく生活しているひとたちのはずです。なぜなら、自分たちが その空気を つくっているのだから。自分たちが「差別する社会」を つくりあげているのだから。自分たちには空気でも、だれかにとっては毒であるということ。その毒を まきちらしているのは、差別者であるということ。


 アイヌの権利を みとめようとしない多数派日本人が、つまり、この日本社会の現実が、アイヌが「アイヌでいること」を やめさせたり、あるいは 「アイヌでいないこと」を あきらめさせ、あるいは、「アイヌであること」を たえず意識させつづける、あるいは、意識させつづけながらも それを かくさせようとするのだ。


 問題は、個々人が どのように自分を 規定して名のろうとも、一方的に その自称を はぎとり、「在日」や「部落」のラベルを はりなおす ひとが いるということです。アイデンティティは、そもそも自由であるべきです。それにもかかわらず、多数派日本人が、アイヌ朝鮮人などの少数派に「アイデンティティのジレンマ」に おいこむのだ。


 こういった はなしは、くりかえし かいています。


 日本国籍人という軸を つくるとして、そのなかには、朝鮮人アイヌ人、おきなわ人も ふくまれます(もちろん、朝鮮系の ひとたちには 朝鮮籍や韓国国籍の ひとも います)。「日本国籍を もつひと」という意味での「日本人」と、民族としての「日本人」が おなじ名前では、しばしば はなしが 混乱してしまいます。


 そこで、「ヤマト人」や「和人」という名前を あてがうこともできるでしょう。ですが、わたしを ふくむ 多数派の日本人は、「ヤマト人」や「和人」という表現を 日常的に つかうことなど ありません。なぜでしょうか。



 それは、「民族」という観点を かかえこむ必要が ないからです。端的にいえば、「多数派には名前がない」ということです。それは 自分たちが、民族と国籍というカテゴリーを ごちゃまぜにして とらえていても、とくに問題が 生じないからなのです。とくに問題ではないと 認識しているからなのです。



 「民族」であるとか「エスニック」ということは、自分たち以外の どこか とおいひとたちのはなしであると 「おもえてしまう」のです。そのように、「おもえていられる」のです。


…中略…


…ここで わたしが いいたいのは、国民国家のなかで、「民族というカテゴリー」から 自由で いられる ひとたちは、特権的な たちばに おかれているということです。特権を たのしんでいるのだということです。


 民族という観点から 自由で いられるという、「民族フリー」の「日本人」の たちばから、「民族は幻想だ」ということは、もしかすると、かんたんなことなのかもしれません。


 さて、構築主義にはなしを もどしましょう。


 千田有紀(せんだ・ゆき)は、「方法論としての構築主義」として、つぎのように説明している。


 ここで想起されなくてはならないのは、構築主義は、ある人間の立場、信念を表明することではなく、あくまでひとつの「アプローチ」にすぎないということである。構築主義は、認識に対して接近するためのアプローチであり、ひとつのパースペクティヴである。構築主義の視座にもとづけば、どのように現象が切りとられ、どのように現象が記述されるのかこそが、問われるべき問いである。
(せんだ「構築主義の系譜学」上野千鶴子(うえの・ちづこ)編『構築主義とは何か』勁草書房、34-35ページ)



 構築主義は、ある主義主張ではありません。方法論です。構築主義の視点にたって、どのようなことを 論じるのか。なにを 批判するのか。なんのための構築主義なのか。それは、自分で きめることです。


 さて、伏見憲明(ふしみ・のりあき)さんの名著『欲望問題』ポット出版から引用して、この記事を しめくくりたいと おもいます。


たしかにゲイというアイデンティティは近代に構築されたものかもしれないし、ゲイとストレート、トランスジェンダーの間にはあいまいな領域が存在しています。しかしそれをもって、共同性をすべて否定してしまうのなら、ぼくらの生を意味付けている多くのものを否定することになりかねません。…中略…


 ぼくが思うのは、人間は、さまざまな共同性に足場を置きながら、それとの一体感を味わったり、違和を感じたり、楽しみを得たり、そこでの規範に抑圧感を抱いたり、帰属を変更してみたり、帰属先を改革してみたり……といった存在でしかありえないということです。

(147ページ)


 わたしは、『欲望問題』を よんで、だいぶん触発されました。わたしが「そうだなあ」と納得したのは、つぎのような発想です。


ここ数年、ぼくはゲイだからゲイ・コミュニティに属する、という見方ではなく、自分が豊かな人生を歩むのに、ゲイ・コミュニティというフィクションをいかに創造し、それを利用するのかというスタンスに移行しています。ここで言うゲイ・コミュニティとは同性愛の欲望を持つ人たちの場というよりは、同性愛という縁でつながった人々が意識的に作り上げる空間、と言ったほうがいいでしょう。縁を通じて、自分自身が選び取った関係性の延長線上にある共同性です。
(154ページ)


 「自分が豊かな人生を歩むのに、ゲイ・コミュニティというフィクションをいかに創造し、それを利用するのか」。いいですね。共同性というもの、アイデンティティというものを 頭ごなしに否定するのでもなく、幻想だといって満足するのでもなく、また、否定的側面を 批判すること「だけ」に集中するのではなく、「うまく つきあっていく」ということです。


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