hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

「やめろ!」と いえる社会へ。

 このブログは、ものすごくマイペースに おもいつくまま かいています。つぎつぎと ちがうテーマを とりあげますし、それは日本語についてだったり、たべものについてだったり、障害や福祉についてだったりします。


 いまガザで おこっていることを おもえば、ブログを かいているものとして、イスラエルに抗議する記事を くりかえし かいていく必要があるかと おもいます。それが できていない わたし自身のことを ふりかえるにつれて、もうしわけなく感じています。


 このブログを 定期的に よんでくださっている かたは、もし よろしければ、はてなブックマーク - hituzinosanpoのメモ帳なのだも あわせて ごらんくだされば さいわいです。



 日本では、抗議するということ、いかりのこえを あげるということを、ほとんど経験していないという ひとが、多数を しめるように おもいます。それは自分が しいたげられても、じっと がまんするということを 意味します。そして、しいたげられている だれかにも、じっと がまんさせるということが 同時に あるような気がしています。


 かんたんに服従してしまう ひとは、だれかの足を ひっぱり、おなじく服従することを 要求してしまうように おもいます。これでは、人間が すくわれません。


 いやだ!ということ。やめろ!ということを、そろそろ身につける必要があります。


 たとえば、女性が 痴漢に あったとき、「やめて」や「やめてください」ではなく、「やめろ!」と いえる社会にしていきたいと おもいます。



 従順であることは美徳ではありません。批判しないことが 平和なのではありません。


 平和は、いっしょに つくっていくべきものです。それを はばむ権力が あれば、その権力を ぶっこわす必要があります。



 ひとりでは こわい。不安だ。



 そうでしょう。けど、まってください。だからこそ、平和を いっしょに つくっていくのです。




 だれかの平和が おびやかされているとき、だまっているということは、自分が危険に おかされても かまわないということなのでしょうか。そうではないはずです。自分のことであっても、他人のことであっても、いやなことは、「いやだ!」「やめろ!」と主張しましょう。むずかしいことでは ありません。圧倒的な力を もって ひとを ころしている。それが、イスラエルパレスチナの ひとびとに やっていることです。


 「どちらも わるい」というような視点は、問題を 他人ごとにしてしまうための、いいのがれです。自分の日常から、自分の責任から きりはなそうという、いいのがれです。


 わたしたちは、世界のことに責任があるのです。なぜなら、この かぎりある世界を わかちあって いきているからです。おなじ時間を 共有しているからです。暴力を ゆるさない。それは、人間が もつべき 最低限の倫理です。


リンク:ガザ虐殺;世界の注目を浴びつつ実行する国とそれを容認する国 (追記有) - Gazing at the Celestial Blue