hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

そばに いる ひとが。

 去年だったでしょうか、わたしは あるとき いわゆる「特別養護老人ホーム」に 見学に いきました。のんびりした時間が ながれていて、職員さんが いそがしく かけまわっているということも なく、おちついた ふんいきで好感を もちました。


 わたしの おばあさんは、わたしに あうと、いつも おなじことを はなします。


 わたしが サカナとりの あみを もって 川のへりで あそんでいたときのことです。とおりがかった ご近所さんに、わたしは きかれました。「やすくん なに しょーるん」。そして わたしは こたえたそうなのです。


 「サカナ とりょんに きまっとるがー」。



 「サカナを とっているのに きまってるじゃない」ね。「きまっとろー」と いったのかもしれません。その ちょっと なまいきな かんじ、いかにも こどもな かんじが つぼだったのでしょう。そのはなしを、わたしは これまで ずっと きかされてきました。おばあさんが いくら としを とっても、それだけは かわらずに います。



 老人ホームの はなしに もどします。お上品な ふんいきの おしゃべりずきな おばあさんと、わたしは おはなしを しました。「なんでも わすれてしまうんです」というのを おもしろおかしく おっしゃるのを ききながら、「わすれてしもーても、そばに おる ひとが おぼえとりゃあ それで えーですよねー。わはははは。」と おはなししました。おばあさんは、「そうですねーー。」と わらってくださり、わたしも、もう一回、「わはははははは。」と わらったのでした。


 記憶を わかちあう。


 結局 ひとが ひとと はなしを するのは、記憶を わかちあうということになっているのじゃないでしょうか。こんなことが あったよ。こんなことを しましたよ。いろんなことが つみかさなって、ひとは 人生を つみあげています。人生を わかちあうことが できたら。記憶を、わかちあうことが できたら。


 「あーーー。あったあった!」「そうそう!」「あれ、わらったねーーー!」「はーーー。ほんとに。なんだったんだろうね、あれ」。うっすら なみだを うかべながら、ふと おもいださせてもらった記憶に 感激することが ありますね。そんなこと。そんな記憶のキャッチボール。


 いっしょに つくった記憶は、いっしょになって おもいだせば いいじゃない?



 記憶というのは、ほんとうに あやふやなもの。わすれてしまうもの。だから、わかちあうの。そして、いっしょに おもいだしてみるの。

 はなしが具体的であるだけに、つたわってくるものが あります。