hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

回想法を めぐって。

三好さんの『ブリコラージュとしての介護』は名作だと おもいます。なかでも「回想法よりも回想につきあえ」というエッセイは、とても共感しました。三好さんは、つぎのように のべています。


…過去を回想しその世界に遊ぶことが無意味だなんてちっとも思わない。しかし、意味があるのは「回想」であって「回想法」ではないのである。
 「さあ皆さん、集まって今から回想しましょう」なんてシラジラシイやり方に乗ってくるような老人なら大した問題はないはずである。
(96ページ)


 三好さんは「老人の側からの自発的な「回想」につきあってあげられるだけの時間と心の余裕があることこそが求められている」と いいます。「思えば、老人たちはあらゆる場で「回想」をしているはずである」と いいます(97ページ)。三好さんは、つぎのように まとめています。


 回想法をわざわざやらねばならぬほど、回想するゆとりのない生活のほうをどうにかしろ、と私は言いたい。
 こちらが設定してやる「回想」や「音楽」や「アニマル」ではなくて、老人の回想や歌や猫に、こちらがやむなくつきあわされるようなケアこそめざすべきではないか。そのとき老人は、客体から主体になっているのだから。
(98ページ)



 たいせつなのは、その ひとが なにを おぼえていて、なにを わすれているのかを、ていねいに くみとることでしょう。ひとは だれしも ふりかえる。だれだって、なにかを おぼえています。三好さんが おっしゃるとおり、いつでも どこでも、ひとは 回想しているのです。その 回想に つきあい、よりそうこと。それが ケアする ひとの しごとのはずです。
 みんなで あつまって なにかを おもいだす。それも たいせつなことだと おもいます。だって、相乗効果に なるはずですから。おもわぬところで スイッチが はいるかも しれませんから。


 ですが、そこに 集団が いる場合、ケアする ひとは、ひとりひとりに むきあうことが むずかしくなります。いろんな余裕が なくなってしまうからです。でも、それでも わすれないでいたいこと。それは、それぞれの日常に なにが いきづいているのかを、きちんと 把握することです。日常のなかから うまれてきたドラマに、きちんと むきあえる環境を つくっていくことです。


 その ひとが ながい年月を いきてきたということ。そのプロセスで、ふりかえる なにかが うまれたわけです。その ひとだけの たいせつなこと。それが、わたしにとっても たいせつなことであると おもえるようになりたい。その ひとの人生を 尊重し、その ひとを たいせつに おもえばこそ、その ひとが ふりかえる たくさんのことが いとおしく感じられるように なるのでは ないでしょうか。かたってくださることに 感謝できるように なれるのでは ないでしょうか。


 「つくりだす」ことばかりに 熱中していては、「みいだす」ことが おろそかになりがちです。あたらしいことに 気を とられるばかりに、ふるくから あるものを みうしなってしまわないように、日常に ころがっているドラマに 気をくばることが たいせつなのでは ないでしょうか。


 わたしは、むかしから 気になっていることが あります。「自然は うつくしい」というときに もちだされるのが、いつも、大自然と いわれるような「巨大なもの」であること、そして、「人間から とおいところにあるもの」が 「うつくしい」とされることです。それは、たしかに そうでしょう。うつくしいでしょう。
 けれども、アスファルトの すきまから はえてきた 一本の草に、わたしは「自然」を みいだしたいと おもっています。


 ささやかな回想に、つきあっていきたいと おもいます。



 まだ よんでいませんが、黒川由紀子(くろかわ・ゆきこ)『認知症と回想法』金剛出版という本が あります。