hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

『あれは自分ではなかったか―グループホーム虐待致死事件を考える』

 きのう、ねるまえに『閉鎖病棟』という小説を よもうと おもったのですが、ひょっこり よみかけで放置していた下村恵美子(しもむら・えみこ)/高口光子(たかぐち・みつこ)/三好春樹(みよし・はるき)『あれは自分ではなかったか―グループホーム虐待致死事件を考える』ブリコラージュが でてきました。


 今年の読書を ふりかえると、いくつか すばらしい であいが ありました。なかでも、『ケアという思想―ケア その思想と実践 1』収録の 三好春樹「ブリコラージュとしてのケア」に すばらしく感動しました。


 三好さんの本は、『ウンコ・ シッコの介護学』は もっていましたので、すこし意識していたのですが、「ブリコラージュとしてのケア」は、ほんとうに よく まとまっていて 衝撃的だったのでした。


 それ以来、三好さんの本を あれこれ よんでいますし、三好さんが発行している『月刊ブリコラージュ』も購読しています。それくらい、はまったのでした。


 三好さんは「オムツ外し学会」というのを やっているのですが、ひとつだけ資格というか条件が あるそうなんです。それは、「先生と呼ばれないとムッとする人お断り」です。すばらしいですね。


 わたしは、社会言語学的/障害学的な 理念から「大学教員を 「先生」と よばない運動」(だれでも さんづけする)を 実践していますが、こういう学会が あるというのは、うれしいことです。従来の 学会を おちょくるニュアンスも こめられているのですから。



 さて、『あれは自分ではなかったか―グループホーム虐待致死事件を考える』。


 この本は、もう現場にいる ひとは ぜひとも よむべきだと おもいました。あちこちに線を ひきながら よみました。ぼろなきしながら よみました。なみだが とまりませんでした。ほんとに いい本です。


 たとえば、下村さんは つぎのように かたっています。「よりあい」というのは下村さんの職場です。


 「よりあい」では自分がいかに惨めで、介護者に向いていないかを朝の申し送りで話します。夜勤中に起こした自分の失敗や利用者ともめたこと、包み隠さず全部話し、出勤しているスタッフに聞いてもらいます。
 できれば自分の失態は隠しておきたいです。しかし事実なのです。事実を受け止め、明らかにし、職員に打ち明け、相談し、報告します。そしてみんなで笑います。
(36ページ)


 下村さんは つづけて、つぎのように かたっておられます。


お年寄りに真剣に向き合った時に、介護を拒否、拒絶し、くりかえし説明してもわかってもらえない時があります。そんな時、現場のスタッフは、落ち込み、自分を責め、自分の人間性までも否定してしまいがちです。現場の管理者、スタッフ、事業所を支えているスタッフが共感しあえる関係でないと、お年寄りに対して暴力、抑制、虐待はなくならないと思います。そういった、共感的関係を基礎にお年寄りの抱える困難に向き合っていく職員集団づくりが必要ではないでしょうか?
(37ページ)


 このへんから もう わたしは ぼろなきです。39ページには 谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんの「願い」という詩が のせてあって、これにも なきじゃくりました。『シャガールと木の葉』集英社という本に おさめられている詩だそうです。


 つづく高口さんの おはなしも、やっぱり すばらしいのです。高口さんは現場のリーダーの役割について重点が おかれています。つぎの一節は、うなってしまいました。ほんとうに そうですね。


 だいたい、愛しきものは皆臭いし、汚いし、わずらわしいものです。臭くない赤ん坊がいるでしょうか。汚くない男がいたでしょうか。親はいつだってわずらわしい。そしてその臭くて、汚くて、わずらしいものを私がどうするの、というところから深い関係性が生まれてきたのです。臭さ、汚さ、わずらわしさは、私がその人の関わりを意識し始めたことの裏返しです。つまり、気になって仕方がないということ。
(58ページ)


 三好さんは 頭の きれる ひとです。するどい ひとです。それは、つぎの一節を よんでみるだけで、つたわるのではないかと おもいます。


 グループホームは、家庭的ケア・家族のようなケアを売りものにしてもてはやされました。しかし、考えてみてください。近代の家族くらい閉鎖的な場はないのです。核家族というのは、精神障害者も、寝たきり老人も、障害児も全部施設に入れることで成り立っている、非常に排他性の強い空間です。核家族が出現する前の大家族には、もっと許容力があったと思います。
(66ページ)


 三好さんは 学校を例に あげて、すばらしく するどい指摘を されています。


現在の担任1人体制は〈担任帝国主義〉と言われています。子どもたちの中に大人が1人。しかも、クラスというのは治外法権で、他の先生は他のクラスに口が出せないんです。このような閉鎖的なクラスで、一方的な関係が成り立つ時、じつは堕落が始まるのです。
(68-69ページ)


 あまりに たくさん引用しすぎたかもしれません。この記事で満足してしまわずに、ぜひとも『あれは自分ではなかったか』を よんでみていただきたいと おもいます。虐待や介護についての本というよりは、いきるということ、ひとと関係するということについて、あしもとから かんがえなおすような本だと おもいます。

 うえの記事に かいたようなジレンマが、この本には かいてあります。そして、ただしい理念が かたられています。ケアすることの責任を あらためて痛感させられる本でも あります。


 ケアというのは、その ひとのことが「気になる」。だから「気を くばる」ということから はじまるものだと おもいます。だからケアというものは、時間を かけて はぐくむものであるはずです。


 とまどうことも あれば、自分の いやなところに直面することも ある。おもわず おこってしまうことも あれば、おこるべきと判断されることも ある。それでも いごこちが わるくて、どうしよう…。にげたい。やめたい。もう いやだ…。そんなふうに 途方にくれることも ある。それでも そんな いきどまりから「わたし」を すくいだしてくれるのは、「気になる ひと」の笑顔であるのです。


 もちろん、笑顔だけ すばらしいものだと賛美することは できません。いつでも笑顔に めぐまれるわけではないのですから。笑顔なしには すくわれないケアであっては ならないのです。それでも、だけれども、笑顔には いつも、すくわれています(笑)。そんなものでしょうか。