hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

無力感が 無責任に つながってしまう。

 その社会の だれもが、自分は無力だ、社会を かえる ちからはないと感じてしまうなら民主主義の社会ではない。ダグラス・ラミスが いうとおり、「無力感を感じるなら、民主主義ではない」のだ(『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』第5章)。


 無力だと おもっているなら、自分の責任など実感できるはずもない。自分に決定権や影響力が あることを 実感するからこそ、自分の やくわりや責任を 自覚するようになる。


 「わたしは この社会を かたちづくっている一員なのだ」という感覚。そういう感覚が まず第一に必要。それが おのずと実感できるような社会にしないといけない。そうしていくなかで、自分の社会的位置を 確認し、構造的差別への「責任」を 実感できるようになる。行動できるようになる。

 要するに、「差別者として自覚する」とか、そういうことは たいせつだとは おもいません。差別は構造の問題であるということさえ理解していれば、それで いいのではないかと おもいます。そして、この社会の一員として、この社会の構造を かえていくことはできるし、その責任があるということが わかっていれば、じゅうぶんかと おもいます。構造の問題だから、どうしようもないなどということはできないのです。これまでの あゆみによって この社会が つくられたなら、これからの あゆみによって、かえてゆけばいいのです。だからこそ、「たいせつなのは、「わたしは どの方向を むくのか」ということ」なのです。

 たいせつなことは、責任を ひきうけるということです。

 社会問題に気づき、どうにかしたいと感じ、けれども自分は無力だと感じてしまうとき。どうするのか。


 まず、うばわれた「ちから」(権限)を うばいかえすことだ。



 逆にいえば、責任は権力者にある。



 それじゃあ、権力って、いったい なんだろう?