hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

「ただの からだ」に「意味づけ」する(セックスとジェンダー)。

まえに、ガーゲンの『あなたへの社会構成主義』という本を紹介しました。この本は すばらしいので、おすすめです。なかでも いちばん重要なフレーズは、つぎの箇所です。


何かは、単にそこにあります。ところが、何があるのか、何が客観的な事実なのかを明確に述べようとし始めた瞬間、私たちはある言説の世界、したがってある伝統、生き方、価値観へと入りこんでいきます。
(328ページ)


うえのフレーズをよく よんだうえで、macskaさんの「誰でも分かる「ジェンダーがセックスを規定する」の意味とその意義」をよんでみてください。そこに かいてある内容が、よくわかる気がします。いかがでしょうか。


macskaさんは、つぎのように説明しています。


わたし自身はここでいう「ジェンダー」の定義として「性差に関するわたしたちの知」というジョーン・スコットの定義を好んで採用しているけれど、他にもいくつか知られた定義の方法はある。重要なのは、現代のジェンダー論では「生物学的な性差」から区別された「社会的・文化的性差」という意味ではなく、身体に対して与えられた意味、あるいは身体に意味を与える行為そのものを指す言葉として「ジェンダー」という用語が使われていることを理解することだ。

「セックス」のことを「生物学的性」とよく記述するが、このことは2つの意味に解釈可能であまり望ましいとは言えない。ひとつは、物理的存在としてただそこにある身体の性という意味であり、もうひとつは生物学というディシプリンによって性と規定されたものという意味だ。

いかがでしょうか。「からだ」と いった時点で、すでに言語の世界に はいりこんでいます。言語、文化、価値観、社会的制度によって「なにか」(からだ)は認識され、意味づけられています。それが「ジェンダーがセックスを規定する」ということでしょう。


わたしたちは、「なにか」を名づけ、説明し、その価値をかたりあいます。そして、それが いつのまにか当然視されるようになってきます。「自動化される」と いっても いいです。名前や意味づけは固定され、本質的なもの(そうでしかありえないもの)として、とらえられるようになるのです。


つまり、「なにか」でしか なかったものが、いつのまにか「それ自体」と「名前」が混同され、そのふたつが同一視されるようになるということです。実体(それ自体)よりも名前のほうに価値がおかれることさえあります。


たとえば、「阪神タイガース」の本質とは、なんでしょうか。監督でしょうか。選手でしょうか。それとも、名前でしょうか?

ここで、「これこそが本質だ!」と主張することに、たいした意味はありません。10年たって、監督が かわっても、選手が全員あたらしくなっても、それでも「阪神タイガース」と認識されるという点に、注目してください。


これは、ちょっと かんがえてみたら、ふしぎな はなしです。そうでは ありませんか? ここに、名前のもつ「求心力」があります。

  • どのような「からだ」をもって「女性」とするのか。
  • どのような「人となり」をさして「女性」とするのか。
  • 女性や男性という区別はそのままに、もうひとつのカテゴリーをつくるのか。
  • 女性と男性を連続体として とらえるのか。
  • 女性や男性という区別や名づけを拒否するのか。

さまざまな可能性があり、選択肢があるはずです。「チンチンがあるからオトコ」というだけでは固定的で一面的です。

ここに かいたことは、これだけで意味をなすとは おもえません。具体的な文脈で活用してこそ意義ある文章になるはずです。ここはひとつ、自信たっぷりに、自画自賛しておきます。


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