hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

まきこむ

おもわず紹介したくなる すばらしい記事が ふたつあります。


右翼の女教師さんの「あのー、すいません、普通に「死に神」だと思うんですが...」と、

zarudoraさんの「命名、妖怪「どっちもどっち」」です。


女教師さんは、「「現行法を側面支持」してる人はみんな「死に神」代行です。すごく残念ですけど。」「言い換えると、一億3千万人全員が「死に神」代行です。」という議論を している。つぎの主張は、森巣博(もりす・ひろし)さんの死刑廃止論を おもいださせる。


裁判員制度なんかで国民の司法参加が促進されているけれど、死刑執行員制度なんかもつくったらいいと思う。そうしたらみんなが平等に「死に神」代行を負担していることが実感できて、とてもいいと思う。
森巣さんは、「死刑廃止に向けたメッセージ」(アムネスティ)

一回の死刑執行につき、100人くらいを選挙人名簿から無差別に抽出して、死刑執行官とする。
もちろんこれは、死刑制度を容認する「日本国民」の義務である。
拒否はできない。拒否するなんて、それは「非国民」というものだろう。
と主張している。


こうした主張は、死刑制度を 維持している「国民」の責任を 意識させる意義がある。責任を 意識させるからこそ、反発も うみだす。反発は、いまの現実を あらわにする。死刑制度にたいする態度を はっきりと あきらかにする。わたしは、こういった 「まきこみ、かきみだす」ような主張に、すごく共感する。


zarudoraさんは、


イスラエルパレスチナ、機動隊と活動家、警察と西成の労働者、の対立についてのニュースなどがあると、かならず「どっちもどっち」という意見がどこからともなくわいてきます。これをわたしは「妖怪どっちもどっち」と命名したいと思います。
と かいている。


非対称的な関係を むりやり「どっちもどっち」と まとめるのは、「かきみだすような主張」ではない。むしろ、おさえこみ、しずめようとする主張だといえる。


「妖怪どっちもどっち」たちにとっては、事実はもんだいではないのです。ようするにかれらは、あらゆる敵対構造を「どっちもどっち」というフレームをとおしてみるという態度をあらかじめ選択しているのであり(かれらは「闘争」などのことばをはげしくきらい、「紛争」などのことばをこのみます)、しかもそれは、じぶんたちがその敵対構造と無関係な位置にいるかのようにおもいこむための儀式でもあります。じぶんたちが妖怪である自覚がないところがしまつにおえないところでもあります。

とzarudoraさんが かいているように、じぶんを 「敵対構造と無関係な位置にいるかのようにおもいこ」み、「じぶんたちが妖怪である自覚がない」という問題がある。


そうした じぶんは「神様やろう」な位置に いると錯覚している ひとたちに、敵対構造、非対称な現実に まきこみ、きちんと位置づけなおすことが必要なんだと おもいます。


おまえにも社会の一員として 責任があるというのは、いきすぎた一般化などではなく、必要な言論です。

そして、平等ではない いまの現実を みるなら、もちろん、責任重大なひとたちのことを 批判しないわけには いきません。


「だから一般化は いけない」とか、そんなこともないとか、そういう議論は すきじゃない。


多数派を まきこんでいくために、一般化は必要だし、まきこんでいくことで、いまの体制を ゆるがしていくことが社会運動の課題なのだと おもいます。


一般化は、それじたいが目的ではありません。多数派を まきこんでいく戦略であり、まきこもうとすることじたいが「闘争」なのです。