だらだらと。結論もなく。なんとなく。
3人くらいで しらない まちを あるいていて、みちに まよってしまうことがある。安心してしまうからだ。たぶん、だれか、みちを ちゃんと えらんで あるいているんだろうと。
責任の分散って、社会心理学の実験で指摘されていたよね。
1964年のある日の夜、ニューヨークの住宅街でキティ・ジェノバースという女性が帰宅途中に男に襲われました。女性が襲われたときに悲鳴をあげたため、男はその場を立ち去りましたが、誰も出てくる気配がなかったのでもう一度戻り、女性に暴行を加えました。そのようなことを数回、30分にも渡り続け、とうとう女性は殺害されてしまいました。この事件が特異なのは、犯人ではなく周囲に住んでいた人々のほうでした。事件後の調べによると、なんと38名もの人が女性の悲鳴を聞いていたというのです。しかし、窓際から外を見ても、特になにもなかったため警察に通報することもなかったというのです。しかも、1度だけならず2度3度、女性の助けを求める叫び声を聞きながらも、誰一人助けることもなかったのです。
多くの学者たちは、この事件に対して社会のモラルの低下であるとしました。しかし、ダーリーとラタネは多くの人が悲鳴を聞いていたからこそ誰も助けなかったのだと考え、傍観者効果として実験によってこれを証明しました。傍観者効果が現れる要因として、「責任の分散」「評価懸念(聴衆抑制)」「多数の無知(多元的無知)」の3つがあげられています。「責任の分散」は、自分一人の場合に助けなかったら責任は自分一人が背負うことになるが、多くに人がいる場合には助けなくても、責任が分散し自分一人の責任ではなくなるということです。「評価懸念」とは、自分が助けに行って何でもなかったときに、恥をかくことを気にすることです。「多数の無知」とは、自分が助けに行かないのは評価懸念などのためであるが、他の人が助けに行かないのはその事態が助けを必要としていないと認識しているからだ、と考えることです。つまり、他の人も評価懸念などのために助けないのですが、他の人の考えが分からないため、勝手にそう考えてしまうのです。
このような傍観者効果は、傍観者の数が増えるほど、また自分よりも有能な人がいるときほど顕著に見られます。…後略…
「傍観者効果」だとか「責任の分散」ということ。よくあることなので 気をつけないといけない。気をつけるためには、そういうことがあるということを しっておく必要があるでしょう。「傍観者効果」という表現は ぱっと わかりにくいですが、「責任の分散」というのは なんとなくは想像できる表現なので ふだんから よく つかうと いいと おもいます。
「このような傍観者効果は、傍観者の数が増えるほど、また自分よりも有能な人がいるときほど顕著に見られます」というのは、なんだか わかる気がしますね。たよってしまうんですね。依存してしまう。「信頼してしまう」というか。「信頼してしまう」というのは おかしな表現ですが、でも ほんとうにそうですよね。
リーダーシップというのは、なんでしょうか。ひとを ひっぱっていく行動力? カリスマ性? 責任感? 命令すること? エゴイズム?
自分に自信がないひとはリーダーになることを いやがります。責任が おもたく感じてしまうとリーダーになるのは いやでしょう。
グループのなかで、だれもリーダーにならないということ。それは民主的な運営だといえるでしょう。「ひとりの ひとが どんどん はなしを すすめていく」ことは、おそらく ないでしょうから。みんなで きめるしかないわけですから。みんなで責任を もつしかないわけですから。でも、そのときに注意しないといけないのでしょう。「みんな」いっしょではないのですから。いろいろな価値観が あるなかで、多数に支持されている価値観というものがあり、それが上下関係をつくったり、序列をつくることがあるからです。そうすると、平等なようで、そうではないということになります。
リーダーになりたい理由も、なりたくない理由も、そのひとの「リーダー意識」、リーダーシップについての視点が影響しているでしょう。
謙虚だからかもしれず、経験に とぼしいからかもしれない。
ひとに まかせてしまうと自分は経験できない。けれども、経験がないから まかせてしまうという堂々めぐりになってしまうことがある。それをみて、ハラが たつこともあるでしょう。またそれで ちいさくなってしまうということもある。
つきはなすでもなく、やってしまうでもなく、いっしょにやれたら いい。いっしょにやるためには、あせってしまってはいけないのでしょう。ときには まつことも必要。うながすことも必要。やってみせることも必要。やってみてもらうことも必要。時間が かかること。
いっしょに やっていくなかで関係を つくっていく。分担を つくっていく。
ひとと なにかをするということは、かんたんなことじゃない。ぶつかりもすれば、だまってしまうこともある。
日本女性学研究会が つくっている『女性学年報』という雑誌がある。「日本女性学研究会とは」という文章がある。一部を引用する。
この会では、現在の社会に存在する上下関係や権威構造を否定し、代表者や一切の「長」をおかず、対等な個人の合議制による運営を行っています。私たちは共に語り、考え、行動することによって、私たち自身の、そして社会の変革をめざしています。
(第24号、230ページより)
こういう問題意識、わたしは すきですね。で、これが理想なんだけど、実現できていない現実があると おもうのです。いろんな場所で。この文章が すてきなのは、実現できていない現状を といなおすときに、この一字一句のもつ意味を あらためて といなおすことになるからです。つまり、「対等な個人」とは なにか。「共に語り、考え、行動する」とは、どういうことか。
2003年の第24号から、この趣旨を説明する文章の朝鮮語と漢語(いわゆる中国語)の翻訳を掲載することになりました。その きっかけを つくったのは、第24号に掲載された つぎの論文です。
興味のあるひとは、つぎの論文も よんでください。
- 糸魚川美樹 「差別論をかたることば―『女性学年報』のこころみを例に」ましこ・ひでのり編『ことば/権力/差別』三元社、193-215。
はなしを もどします。第24号では「一切の「長」をおかず」の朝鮮語訳が「一切の「責任者」をおかず」となっていたんですね。漢語訳は「リーダー」という意味の「リンダオ」という表現になっていました。ここで いいたいのは、「責任者をおかない」ってことではないよねということで第25号からは朝鮮語訳の「責任者」は「リーダー」になりました(いまは どうなっているか しらないのですが)。
たしかに、リーダーというのは責任者でもある(ということになっている)ので、訂正しなくても よかったのかもしれません。けど、なんだか気になります。それはたぶん、この会では「みんなが責任をもつ」というのが、もとの文章に こめられた主張だと おもうからです。
わたしが おもうのは、「みんなが責任をもつ」ということの むずかしさです。集団のなかでは、ひっこみじあんになり、ほかのひとに たより、わたしの意見なんて…と自信を もてずに うごけない…、そうしたことが おきるからです。
「みんなが責任をもつ」というときに、結果として「責任の分散」になってしまえば、リーダーを 必要としてしまうのではないでしょうか。みんなと いっしょにいながら、「自律する個人」でいることは むずかしいことです。でも、むずかしいからこそ実現したいことです。
むずかしいことが わかればこそ、それでは どうしようかという質問を えることができます。そこが出発点になります。
いや、ほんとに結論も なにも ないんですけど。
おまかせ民主主義。なげやり民主主義。そんなふうに表現することがあります。「無力感を感じるなら、民主主義ではない」という主張があります(ダグラス・ラミス)。
無力だと おもうから、まかせてしまうのか。まかせてしまうから無力になるのか。どちらでもあるんでしょうね。
日本国憲法の第一条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と いっています。文章のとおり理解するなら、「わたしは同意してない」と いえば、その地位を かえることができるはずです。
無力だと おもっているなら、自分の責任など実感できるはずもない。自分に決定権や影響力が あることを 実感するからこそ、自分の やくわりや責任を 自覚するようになる。
どうすれば、「自分に決定権や影響力が あることを 実感する」ことができるだろうか。
居場所が必要です。ひとに必要とされることが必要です。尊敬を うける経験が必要です。自分を だいじにできることが必要です。だれかを たいせつに感じることが必要です。
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