hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

「革命」と「少しずつよくなれ」

わたしは坂口安吾(さかぐち・あんご)の影響を かなり うけています。

安吾は、革命について、つぎのように のべています。


そのときも私が思ったのは、革命だの、国家永遠の繁栄のため、百年千年の計のため我々がギセイになる、そういうチョットきくと人ぎきのいい甘ッチョロイ考え方がナンセンス、又罪悪であり、人間はギセイになってはならぬ。自分一人好きこのんでギセイになるなら話は別だが、個人としての自我とは別に、社会人としての我々は誰のギセイになる必要もない。
人間は各人が各人の時代にだけしか生きられないものだから、その時代に於て最善の人生をつくったり享楽したり耐え忍んだりするべきもの、後世のためにまで自分がはからうオセッカイはいらないことだ。各時代が各時代の最善をつくし、誰もギセイにならずに、すこしずつ良くなる。そうしてバトンを渡す。
我々が千年万年、否、人間最後の理想社会などというものを設定し、今すぐそれを作ろうなどと血を流すのはバカも極まる話で、未来の人々は未来に於てそれぞれ自らの工夫を施すに相違なく、そのぶんまで我々がするなどは未来へのボートク、人間へのボートク、人間の進歩というものに対して無智モーマイなナンセンスにすぎないのである。
社会生活の根本的な不変の憲章などというものは天皇制でも民主主義でもない。人間は各人が各人の時代にしか生きていないということ、だから各人は各人の時代に於て、少々ずつの改良を施し進歩をはかり、自分の幸福のために一時を耐え忍んでも、後世の人のために耐える必要はない。否、後世のために耐えたり妙なオセッカイをしようとするからムリとなり破綻する。そういうことだけが根本的な原則で、天皇制とか民主主義は枝葉のこと、この原則さえ確立しておれば、人間の平和と進歩に間違いのあるべき筈はない。
「新カナヅカヒの問題」より。


革命を 自分の課題とするなら、ここに かいてある文章は、非難のように うつります。けれども、ひとつ みえてくるものが あります。


安吾が いきていた時代は、革命に ある意味づけが されていたということです。それは、「革命やったらユートピア!」です。それで おわり、かんぺき、あとは維持するだけ、という。

そういう「革命」を、安吾は きらっていたのです。そして、「少しずつよくなれ」と うったえたのでした。ですが、どうでしょう。いまの社会では、「少しずつよくなれ」を 実践することさえ、「革命」のように みられています。つまり、過激だと。非現実的だと。

こまったものですね。「いまのままで いいじゃん」を いうために、「かえていこう」という主張を過激だと みなすのです。そして、安心してしまう。ほら、いまのままで いいんだよと。


わたしは、過激な思想を ほねぬきにしたいのでは ありません。過激な運動はやめて、やわらかい運動を しようと いいたいのでは ありません。そういう意味では ありません。

たとえば戸籍制度という わけのわからないものが あります。管理されたくて しかたのないひとにとっては、魅力的なのかもしれません。いや、そんなことは ないでしょうけど。だって、うまれたときから そういう制度があったってだけのことで、戸籍制度の是非なんて かんがえたことも ないのではないでしょうか。


戸籍制度については佐藤文明(さとう・ぶんめい)さんが ずっと批判されてきましたけれども、戸籍制度を 廃止していくための運動というのは、まだまだ 力が たりていないように おもいます。

戸籍制度を 改善するのではなく、廃止する。これは、わたしにとって社会を 「少しずつよくする」ことなのですが、自民党の政治家みたいなひとたちにとっては「革命」なのでしょう。否定的な意味づけを された「革命」ね。


「革命できたらユートピア」。もう、それは信じなくて いいでしょう。

「革命は おわらない」のだから。


ですから、すこしずつでも、どばっとでも、とにかく やれることを やる。かえていく。ぬりかえていく。それを 革命運動と よぼうと、「少しずつよくなれ」と いおうと、どっちでも いい。


とにかく、ひきうけていきたいと おもいます。