わたしは日本語表記の問題と識字イデオロギーの問題を 研究テーマにしています。
日本語表記の問題というのは、議論の内容はともかく 意味あいは わかるとして、識字イデオロギーって なんでしょうか。
そもそも、識字って ことばは、あんまり日常生活では つかわれていません。ですが「識字率」といえば、どのような意味あいなのか、わかるひとも いるでしょう。よみかきできるひとが社会にしめる割合ですね。
識字運動という ことばも あります。これは、一般的には文字を学習する機会を保障されなかった ひとたちが、おとなになって文字のよみかきを ならうことを さしています。そうした識字学習を しているひとたちには、識字というのは日常語なわけです。
イデオロギーって なんでしょう。虚偽意識とか、いろいろ いわれますけど、まあ、社会の主流派、多数派が、なにかについて「絶対に こうあるべきだ」と主張する、一方的で規範的な主義主張を意味すると いっても いいでしょう。こうあるべきだの前提にされているものが、じつは根拠のない幻想であることを さしたりも するようです。
じゃあ、識字イデオロギーとは なんでしょう。
明確にいえば、「だれでも よみかきできるはずだ。できるべきだ。できるようになるべきだ。できるようになるはずだ」という根拠のない主義主張であると いえるでしょう。これって、無理なんですよ。
わたしは知的障害者の施設で しごとを していますから、よみかき できないひと(おとな)なんて、めずらしくも なんとも ないわけです。それが あたりまえと いいますか。
いまの日本社会は、文字をよみかきできることが当然だと おもわれています。よみかきできることを前提にして社会が つくられてしまっています。これって、問題だと おもうのです。
そこで、日本語表記の障害を なるべく とりのぞくことが必要になります。公共機関では、いろんな漢字に よみがなを そえるのは、その基本中の基本です。文字情報にアクセスできるようにすることが肝心なわけですね。
そして、もうひとつ重要なのは、よみかきを自己責任にしないことです。つまり、よみかき できなくても、不利益を こうむらないように、社会の体制をととのえることが たいせつです。
バスでも電車でも、文字が よめなくても利用できるように、なんらかの対策が とられる必要があります。
識字率を あげるためにも、日本語表記を わかりやすくしよう、というのは、ちょっと危険な気がします。つまり、その主張では「よみかきできる」のは あたりまえだという発想が、まったく問題にされていないからです。「だれでも、よみかきできるべきだ」という発想を共有しているからです。これでは、よみかきを自己責任にしてしまう社会のありかたと、それほど ちがわないように感じます。
そこで重要になるのは、「文字にこだわりつつ、こだわらない」という姿勢なのでは ないでしょうか。
たとえば、自己決定、自己決定権というのが重視されています。けれども、自己決定を能力の問題にしてしまうなら、そこには あきらかに、おとしあなが あります。その点が、知的障害者の支援をめぐって議論されてきました。
それを はっきりと指摘したのが、寺本晃久(てらもと・あきひさ)さんの「自己決定にこだわりつつ、こだわらない」(『月刊福祉』2003年10月号)という文章では ないかと おもいます。
リンク1:字を読む力を「自己責任」装置にしないために(女教師ブログ) ←すばらしい記事です。
リンク2:「均質な文字社会という神話-識字率から読書権へ」(わたしの論文) ←よみたいかたは、abe.yasusi@gmail.comまでメールを ください。