hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

学習権と教育権と。

 わたしは、学校教育じゃなくて、学習支援で いいじゃんと主張することがある。いつでも、どこにいても、何才でも、だれもが学習できる。それが大事なんだと。


 こどもを 学校に いかせるというのは、親にとっては託児所に こどもを あずけるという意味もある。親だって、こどもとばかり 顔を あわせていたくない。こどもだって、そうだろう。そういう意味で、学校という居場所には社会的な意味があるんだと感じる ひとも いるだろう。ただし、「学級」という空間の是非についていえば、わたしは完全に否定的だ。学級というシステムが人間を ダメにしている。くるしめている。わたしは そのように かんがえている。
 学級という空間の だめっぷりを 批判し、介入していくうえで、学習支援という視点は重要な意味があると おもっている。


 わたしは訪問語学講座を ほそぼそとやっている。あるときには ひとりの学習者に ふたりで訪問するということをした。おもしろかった。ふたりのほうが、そのひとに いろいろと おそわっていたわけであったけれども。


 わたしは ふだん介助の仕事をしていて、一対一で生活の介助をしている。入浴の介助は ふたりですることもある。


 そういうことを 経験していると、学級というシステムは、「やすあがりに すませてしまおう」という魂胆ばかりが感じられて、どこが「教育」だよと感じてしまう。


 すぐに「予算が」という ひとが いるけれども、日本の教育費の すくなさを かんがえてみれば、「もっと予算を」というしかない。まともに 予算を つけてから心配しなさい。


 学習支援というのは、学習権を 保障するということだ。人間には いろんな ひとがいる。教室で みんなといっしょに なにかを まなぶということが、苦痛でしかない ひとも いる。そういう ひとも学習する権利がある。「学級」というシステムに支配されなければ学習する権利が保障されないというのは不当だ。おかしい。


 これまで、そんなことを かんがえてきた。で、ここまでの はなしで無視しているのは、教育者であれ、学習支援者であれ、「これを つたえたい」「おしえたい」という欲望を もつことがあるということだ。それを パターナリズムであるとか、「教育」であるといって否定するのかどうか。否定できるのかどうか。


 いろいろと かんがえてみて、わたしは、いまのところは そういう欲望を 否定することはないのかなと おもう。そりゃ、あるよね、そういうことは。つたえたいこと、おしえたいこと、おしえるべきだと感じること。


 で、そういうことについて かんがえてみると、それは教育権という ことばで とらえることができるのかなと。とくに、教育権というのは、自民党のような 教育支配を もくろむ勢力が 幅を きかせている社会では、重要な理念になりうると感じる。教育を 支配することで、人間を 支配するという、学校教育をイデオロギー注入装置にするという。


 「学校教育は、そもそも そういうものだ」と一般化することもできるだろう。「だからダメなんだ」ということもできるだろう。しかし、それでも、国家権力の介入に抵抗して、「自分なりの」教育内容を つくりあげようとしている ひとたちのことも、わすれることはできない。歴史を修正したり、美化したりしようとする国家権力に抵抗し、日本の植民地支配責任を といつづけるような、そういう教育実践を つづけている ひとも、たぶん、教育現場には いるのだ。で、そういう ひとたちの権利のことを 教育権ということはできるのかなと おもう。


 しかし、わたしは やはり学習者の権利を わすれることはできない。学習者の権利というのは、国家権力との関係における権利であると同時に、教育者/学習支援者との関係における権利でもある。


 知識の量が ちがうという点で、学習者と学習支援者は非対称な関係にある。注意しないと、平等や公平という理念が ないがしろにされる危険性がある。学習者の権利は、かんたんに制限されてしまう。介助者が いとも かんたんに、障害者の権利を 制限してしまうことがあるようにだ。


 だから、教育権ということと学習権ということを 同列に あつかうべきではない。しかし、教育者/学習支援者の教育権を 無視することは、わたしにはできない。今のところは。


 わたしは、教育者や学習支援者の欲望が なくなってしまうような社会になれば いいなと おもう。情報が きちんと保障され、学習素材が 社会のあらゆるところに配備されていて、だれもが歴史や社会問題について かんがえる主体として存在していて、公共図書館が たくさんあって、本だけでなくて、映像や音声資料も たくさんあって、議論する場もある。交流する場もある。みんなに たべるものがある。みんなに、ねるところがある。政治家も 暴言を いわない。そんな社会。


 教育者や学習支援者の欲望というのは、現実が ふがいないからこそ、生じているんだろうと おもう。



 ということで、学習権を 確立するために、いろんなことを やっていけたらなと おもっています。


関連記事:

「みなし再入国」制度は詐欺の手口だ(追記しました)。

 日本で生活している外国籍の人が日本から出国するとき、「再入国許可」を とらないと、それまでの在留資格をうしなってしまうという問題があります。そして、その再入国許可というのは、お金をはらって、地元の地方入管(住居地を管轄する地方入国管理官署)で申請をとる必要があるという問題がありました(参考:法務省:再入国許可申請)。


 2012年の改訂入管法法務省は「みなし再入国」制度をはじめました。法務省は「便利になりました!」とアピールしていました。


 法務省は、朝鮮籍の人は法務省が「有効」とみなすパスポートを もっていないといって、この みなし再入国制度を 利用させていません。この問題は、よく しられています。


 今回 紹介するのは、みなし再入国制度の もうひとつの問題です。いまになって紹介するのは、わたしの不勉強によるものです。反省します。



金朋央(きむ・ぷんあん)「特別永住者にとっての新在留管理制度」外国人人権法連絡会編『日本における外国人・民族的マイノリティ人権白書 2013年』9ページ。


見出し「「みなし再入国許可」に潜んでいた落とし穴」の部分。


 これまでの「再入国許可」は上限5年、特別永住者は6年というものでした。あたらしい「みなし再入国」制度では出入国カードの「みなし再入国を希望する」という欄にチェックすることで、みなし再入国の許可をうける。
 問題は、つぎの点です。金さんの説明によると、

ところが、本来の再入国許可(上限5年/特別永住者は6年)を受けた人がこの欄にチェックしてしまうと、みなし再入国として扱われ、再入国の期限は「みなし」に適用される期間内(1年以内か在留期限の短いほう/特別永住者は2年)とされる。その説明は、事前の広報でも、現在の空港出国カウンターでも全くなされていない。
 所定の再入国期限までに日本に戻って来られなかった場合は、日本出国前の在留資格を失い新規入国者扱いとなる。特別永住者も例外ではない。今回のみなし再入国は、便利になった反面、制度を熟知していないと在留資格を失うほどの危険性も孕んでいたのである。実際にみなし再入国が原因で在留資格を失うという由々しき事態が既に複数報告されている*1

ということです。これが、国が法にもとづいてやることでしょうか。こんなのは、詐欺の手口ではないでしょうか。


 じっさい、法務省だより あかれんが Vol.39というページの「みなし再入国許可」の説明部分を みても、従来どおり再入国許可を申請した人は「出入国カード」の欄にチェックを入れてはいけないということは、かいていない。


 ウェブを 検索してみると、http://www.shon.jp/blog/archives/687というページで この問題を 指摘しているのが確認できた。だが、これは民間の法律関係者が注意をよびかけるだけでは不十分なはずである。そもそも、このような「落とし穴」を つくることが まちがっている。


 きちんと説明しないで、書類上の不備を 根拠に、日本に生活基盤がある人に対して、あなたには これまでの在留資格を みとめないという。そんなことは ゆるせない。
 あたりまえのことでしょう。



 そもそも、法務省に「出入国管理」という視点しかないことが おかしいのです。権利として規定するべきことを、「在留資格」などという ことばで規定しているのが おかしいのです。生活者のための人権政策が必要です。


 人間を ひもで くくりつけるのは、いいかげんにしろ!


関連記事:

*1:追記:著者に確認したところ、この「複数報告されている」というのは、従来の再入国許可を事前にとっていた人ではないということです。みなし再入国をするつもりが、欄にチェックしていなかったということです。このことで「在留資格を失う事例が後を断たない」と報告されています『日本における外国人・民族的マイノリティ人権白書 2013年』4ページ(旗手明(はたて・あきら))。法務省の設計上の不備であり、「カードの様式や手続の改善が必要だ」(同:4ページ)と、わたしも おもいます。

朝鮮学校を高校無償化政策から排除することに反対するパブリックコメント。

 やねごんさんが「いわゆる「高校無償化」からの朝鮮学校排除に反対するパブリックコメント」という記事を かいています。ていねいですね。わたしもパブリックコメントを かきました。




  朝鮮学校を高校無償化政策から排除することに反対します。以下、その理由をのべます。


 敗戦後の日本は、民族問題を棚上げにしてきました。「ないこと」にしてきました。「帰国させる」か、「同化させればいい」という方針でした。しかし、そうはいきません。だからこそ、日本政府は2008年にアイヌ民族を先住民と認定したのです。もはや、民族問題を無視することはできないのです。


 日本の民族問題を解決するためには、第一に、敗戦後の日本に定着させてしまった「単一民族」という幻想をすてる必要があります。第二に、日本政府は単一文化主義、単一言語主義をあきらめるべきです。第三に、日本政府は入国管理政策ではなく、国際人権の精神にもとづく移民政策/難民政策を確立するべきです。


 日本政府が放置してきた民族問題とは、先住民の先住権を尊重することであり、植民地主義を克服することであり、多言語多文化政策を確立することです。日本社会には多様な文化が共存しています。その現実をおおいかくすのではなく、認知する必要があります。そして、政策につなげる必要があります。問題は、朝鮮学校のカリキュラムなどではありません。日本の公教育のカリキュラムのほうにこそ、根ぶかい問題があるのです。


 日本には、民族問題があります。それは日本社会に根をはってしまっている人種主義(民族差別)の問題であり、単一文化主義の問題です。


 わたしは、朝鮮学校を高校無償化政策から排除することに反対します。差別なき高校無償化をもとめます。



注意がき:提出したパブリックコメントでは、「敗戦後の日本に定着してしまった「単一民族」という幻想」と表現してしまいましたが、これは「定着させてしまった」が適切な表現でした。ブログで公開するうえで、その点だけ修正しました。


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小説『百万円と苦虫女』。

 映画の『百万円と苦虫女』は数年前に みた。さっき、小説版を よみおえた。


 100万円 たまったら、しらない まちに ひっこしする。そういう はなし。


 つよく共感するところがある。むかしから「世捨て人」、「移民」、「インキョ」という ことばに ひかれてきた。かえるところがあるという安心感があるからこそ、そんなふうに おもえるのかもしれない。ほんとは気楽なものではないはずなので。安易に ひかれるようなことではないはずなので。


 こどものころから、めんどくさいことが きらいだ。なにもかも、「めんどくさい」で かたづける。やりたくないことはしない。できない。どうでも いい。


 2010年の5月に京都市にきた。もう、2013年なんだから おどろきだ。京都で うまいこと しごとをしている。愛知県にも しごとに いっている。給料もまあ、満足できるほど もらっている。貯金をするという習慣がないので、貯金はゼロ。そもそも貯金する必要を 感じていない。


 京都にきて、いろんなところに旅行した。滋賀、岐阜、福井、石川、静岡、新潟、福島、仙台、和歌山、島根。


 しらない まちを あるくのは たのしい。とりあえず、駅を おりて、その周辺を あるきたおす。それだけで満足。ふうん、こんなかんじなんだ。なるほど。そんなふうに。
 ホテルを 予約するという習慣もないので、いやでも あるきまわることになる。2倍 お得。得してない。


 浜松駅を おりて、ああ 一度 このまちに すんでみたいと おもった。なんとなく。


 あちこちにいって、とりあえず温泉に つかってということを くりかえしているので、1年に 何度 温泉に いっているか わからない。


 こうしてみると、ぜーたくな ぐーたら生活をしている。ありがたいことだ。


 最近は 一度 みた映画を もう一度 みたいと おもうことが ふえた。山口市内を また 自転車で ぶらぶらしたいなとも おもう。けれども、ただひたすら しらないもの、しらないところを みていたい気がする。わたしは自由だ。ありがたいことに。


 2月は 台湾に いきたい。


関連記事:

「障がい」表記について。

 去年、たくさんの ひとたちと共同論文を かいた。まだ査読まちなので、論文として掲載されるかどうか きまっていない。なので、共同で原稿を かいたというのが正確。そのとき、障害の表記を「障がい」にしたいという意見が複数でた。それについて反対意見もでた。わたしは、どっちでも いいと おもったし、そのように発言したけれど、「なぜ「障がい」にするのか、納得のいく説明をしてほしい、そうでなければ「障害」で」ということを あとで つけくわえた。


 「障がい」にするなら するとして、気になることがある。たとえば、わたしは この数年、「図書館利用に障害のある人々へのサービス」というものを 紹介しつづけている。これは、障害者に対するサービスに限定されるものではない。図書館の利用に なんらかの困難がある場合、それは、図書館側が もうけてしまっている障害であり、それを解消する責任が 図書館には あるという視点に たっている。とても意義ぶかい視点だと おもいます。
 この、「図書館利用に障害のある人々へのサービス」を、「図書館利用に障がいのある人々へのサービス」と表記するとすれば、それは まちがっていると おもうのです。


 これは、「移動障害」や「情報障害」も おなじです。社会のありかたが、そのような障害を つくっている。社会のありかたを かえることで、移動するさいの障害や 情報を やりとりすることの障害を なくしていかなくてはいけない。この場合の障害は、問題としての障害なわけです。これを「障がい」と表記するのは、文脈を ふまえていないと感じるわけです。


 さて。わたしは これまで、視覚障害というのと、移動障害というのとでは、障害の意味が ちがうと おもってきました。みえないことは、客観的な事実であって、社会のありかたに左右される移動障害や情報障害とは ちがうものだと。しかし、みえにくさや きこえにくさについていえば、社会のありかた、その場の状況が おおきく関係していることに気づくようになりました。


 きこえにくい ひとが、私語が うるさすぎて、きこえないと いうことが あります。その場の状況や環境のせいで、ききたい発言が きこえない。あるいは、ルーペや拡大読書器について きちんと情報提供されていないために、みえるものが みえないと おもいこまされてしまう。みえないままにされてしまう。そういうことが あります。社会のありかたが視覚や聴覚の障害を 重度化したり、顕在化したりしてしまうということです。工夫すれば、よみやすくなる読字障害の ひとについても、おなじことが いえます。


 ものごとは、イチかゼロかではない場合が ほとんどです。ただ、まったく みえない(全盲)、まったく きこえない(全ろう)という場合もあるので、社会のありかたに左右されない視覚障害聴覚障害も あるわけです。ただし、人間が利用できる感覚は複数あるので、視覚以外、あるいは聴覚以外の感覚を つかって、移動できること、情報の やりとりが できること。それが大事です。つまり、視覚障害に注目するのと視覚障害者に注目するのとでは、みえてくるものが ちがってくるということです。全盲のひとにとって、大事なのは視覚情報以外のものだということですね。きくこと、さわること。聴覚と触覚に敏感だったり鋭利な感覚を もっていることも あるということ。それなのに、音声情報や点字資料が すくなすぎて、情報のアクセスに障害が あるということ。
 ろう者も、みること、さわることに重点があり、視覚と触覚に敏感だったり、鋭利な感覚を もっていることも ある。それなのに、手話による情報や文字情報が すくなすぎて、情報のアクセスに障害があるということ。


 視覚障害がないとか、聴覚障害がないということは、なにも、五感が すぐれているというわけではないのに、「わたしは健常者だ」と おもっている。点字を 触読できるほどの感覚も なければ、手話の音韻を 視認できるほどの視覚も言語的知識も ないのに、「わたしには障害がない」と おもっている。これはたんに、権力関係を 反映しているだけで、能力の差ということではない。また、「能力の差」というものが たとえ あったとしても、それを 優劣と解釈するのは おかしいという倫理観もないということ。つまり、たいしたことのない人間だということ。


 わたしにも障害があると感じ、配慮が平等でないだけなんだと実感するとき、バリアフリーユニバーサルデザインという理念の必然性が理解できるのでしょう。


 わたしたちは、たいしたことのない、よわい存在です。それは肉体だけの はなしではなくて、倫理という面でも よわいのです。だから、社会の ありかたを よりよくしないと いけないのです。個人の良心まかせにしていては いけないのです。


 まったく整理できていないのですが、ここまでの議論を まとめてみます。
 「障がい」という表記は、障害を 個人的なこととして とらえてしまうという問題が あります。そして、社会が つくりだした障害を 問題視する視点に つながらないという問題が あります。もうひとつは、障害を 特定の ひとたちにだけ みいだしてしまっているという問題が あります。


 あたりまえのことを、だらだらと かいてしまったのでしょうか。まちがったことを かいてしまったのでしょうか。わたしは よく わかりません。


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