hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

自分なりの基準と、他人への まなざし。

 だれもが 自分を 基準にして ものごとを かんがえる。だれかのことを 自分の基準で 評価する。


 なにか社会問題について議論するとき、「あの人は体制に迎合的だ」「同化している」というふうに発言することがある。自分は そうではない、ほかの ひとたちは そうではないというふうに比較して、だれかの ありようを 否定的に 評価することがある。よくあることだ。


 ある程度は、そういうことも あっても いいのかもしれない。どこかで 線を ひいて、これだけは ゆずってはいけないはずだと主張することも あるだろう。けれども、冷静に かんがえてみると、支配的な 文化に 迎合的であるとか、同化しているとか、そういうことは だれしも あるわけだ。基準を ずらしてみれば、自分も そうだということになる。


 日常の生活のなかで、いろいろな選択肢があるなかで、なにかを えらぶ。なにかを することは、ほかの なにかを しないことだ。


 生活を ふりかえってみると、そして、「厳格な基準」に てらしてみると、自分だって ひとのことは いえないということになる。


 だから、ほかの ひとのことについて ああだこうだ いうべきではない、と いいたいのではない。自分の基準というのが、いかに恣意的で、ご都合主義的で、たまたま いまの自分に適合しているだけだということを、ふりかえってみる必要も あるだろうということだ。


 基準のハードルは、どこまでも きびしくすることが できる。きりがない。これだという合理的な基準はない。それなのに、たまたま いま、自分が もっともだと おもえるラインを 基準にして、ほかの ひとのことを ああだこうだ いっている。そういうことは、公平な態度とは いえないのではないか。そんなふうに感じる。