hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

日常の つづくさきにあるもの。

 ひとは、しぬ。いきるものには、おわりがある。


 それが いつかは わからない。だから、ささえあって いきている わたしたちは、まわりの だれが、いつ しんでしまうか わからない。自分が いつ しぬのかも わからない。


 もっと いろいろ、いっしょに やっておけば よかった…。そんなふうに残念がることがあります。けれども、いつ しんでしまうか わからないのですから、「ひとを みとる」ときにも、ふだんどおりにしか「みとる」ことはできないのです。
 さいごを くやむのであれば、むしろ、毎日の日常を かんがえなおすべきでしょう。さいごが とくべつ不十分だったのではなく、毎日が不十分だったのです。


 もし、「さいご」を 反省するのであれば、毎日を 反省しないといけないのかもしれません。しんどいですね。けれども、そういうものではないでしょうか。


 日常の つづくさきにあるもの。それは、しぬということです。さよならを するということです。


 通夜(つや)で おしょうさんが、だれでも「いつ しぬか わからない」ということを いっていました。あらためて、そうだなあと おもいました。


 ありがとう。ささげる ことばは、「ありがとう」です。わたしが あふれるほど ないてしまったのは、うけとったものが あまりにも たくさんあるからだろうから。


 ありがとう。