hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

自由であるということ

ひとが自由を かたるとき、自分を かたっているものだ。自分自身が どのような思想を もち、なにを うったえようとしているのか。なにが問題だと おもうのか。なにが たいせつだと おもっているのか。

他人について かたるときも、ひとは同時に、自分について かたっている(「ほんとうの わたし」 - hituziのブログ 無料体験コース)。

いまから3年まえに、「自由では ありえないからこそ」という記事を かいた。ちょうど、仲正昌樹(なかまさ・まさき)さんの『「不自由」論-「何でも自己決定」の限界』を よんでいたころじゃないかな。あ、ちがう。数土直紀(すど・なおき)さんの『自由という服従』を よんだころだ。記事にも そう かいてあるじゃないか(笑)。

さて。

どちらも すばらしい。こういう議論、だいすきだ。やねごんさんの信念が感じられるからだと おもう。やねごんさんの自由論に刺激をうけて、自分なりの自由論を かきたくなりました。


わたしたちは いつも、なにかについて「選択をしている」。それが自由ということだ。わたしたちが なにかを えらぶとき、同時に「なにかは えらんでいない」。「なにかを 選択すること」は、「なにかを すてること」なのだ。わたしは、なにを、どのように、どのような理由で えらんでいるのか。

4年まえに わたしは、「選択」について、つぎのように かいた。


だれもが犯罪をおかす可能性があり、犯罪をおかすべく うまれた ひとなど どこにも いない。だとしたら、殺人も自殺も強盗も「くじ」に あたったようなものだと おもう。だれもが自主的な選択だと おもっている行動も、みかたをかえれば くじびき程度の「選択」なのかも しれない。
くじびき - hituziのブログ 無料体験コース。おなじく4年まえ、つぎのようにも かいた。

最近、気になっていることがある。なにか主張めいた話をして、相手に反応をもとめる。すると、「まぁ気もちは わかるけど、そんな話、ほとんど だれも納得しないんじゃないかな」と。たとえば、差別について話をしたら、「でも差別は なくならないよ」と。そんな反応をもとめてるんじゃない。「わたし」は「あなた」に たずねてるわけで、「一般論」なんぞ もちださないでほしい。「あなた個人」が どう かんがえるのか、それをききたいのだ。社会をかえていく力は、それぞれの個人の意志と選択にこそ あるんだと おもう。自分の立場と姿勢を保留にしたまま、したり顔で「コドモをさとすオトナ」のような いいかたをする。これは いやだ。
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そして、ことばのユニバーサルデザインの方向性 - hituziのブログ 無料体験コースには、


なにかを表現するということは、だれかに なにかをつたえるということなのだが、同時に、だれかには つたえないということでもあるのだ。読者の選別だ。英語をまじえて文章をかくような人は、英語がダメな人を排除する。なおかつ、「英語がダメな人」を実体化する。いかにも罪な行為だ。こむつかしい漢字だらけの文章をかく人も、おなじような選別をやらかすわけだ。
ということを かいた。


それぞれの文章に、それぞれの問題意識があり、それには なんらかの背景がある。そして、どこかで つながっている。

人間は自由だし、いつも選択しながら いきている。だけど、同時に、ひとは自分ひとりでは いきられない。他人と協力しながら いきていくしかできない。だから、自由は「自分だけのもの」ではなくなる。

なんだってそうだけど、自由もまた「ひとと ひととの あいだに あるもの」なんだ。意思をきめるのは個人かもしれない。だけど、それを実現するのは、自分だけじゃない。だからこそ、わたしは あなたに うったえかける。だから わたしは、議論を つづけていくのだ。

わたしは、「わたしの自由」を「わたしだけのもの」だとは おもわない。だって、それだと自由が個人の所有物になっちゃうじゃない? もちろん、だれだって自由だし、自由に いきている。けど、具体的な「行動としての自由」はいつも、「ひとと ひととの あいだに あるもの」なんだ。

意思は自由だ。けど、個人の行動力には限界がある。ひとは空を とびたくても、自分ひとりだけのちからでは、とびたつことは できない。意思を行動につなげるためには、たすけあわなくては いけない。

たすけあうには、「うてば ひびく」人間が必要なんです。どんなことにも ひびけるひとなんて、いないでしょうよ。けどね、なんでも いいから、ひびける人間になりたい。ひびける人間でありたい。

だって、たすけてもらえないから、都合のわるい くじを ひいちゃうんでしょう? しむけられた自由は、自己責任じゃありません。自由が「ひとと ひととの あいだに あるもの」なのと おなじ理由で、責任も、「ひとと ひととの あいだにあるもの」よ。

あら いやだ。自由と責任をセットにして かたっているわ。やだやだ。けど、ここでは ゆるして。


ひとは だれもが自由よ。そして、自由な意思を じゃまされている ひとたちが一方にいて、また一方で、自由な意思を尊重されてばかりの ひとたちもいる。これを、「不平等」というのでは ないでしょうか。

やねごんさんは、いわゆる「能力」を「ひと と ひとのあいだに わかちもたれたもの」だと いいます(「能力」について - やねごんの日記)。

わたしは、この問題意識を、いつまでも たいせつにしていきたいと おもっています。やねごんさんは、能力を「ひと と ひとのあいだに わかちもたれたもの」だと論じている。この問題意識を共有することで、やねごんさんの自由論が、より はっきりと みえてくる。