hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

自覚してれば いいってもんじゃないよね

だれしも、いろんなこと、いろんな問題、いろんな現実に無自覚でいるわけだけどさ、それなら自覚すれば いいかって はなしでもないと おもうわ。自覚するだけではね。


とはいっても、ほんとうに、いろんなことに無自覚でいるよね。わたしは。たぶん、あなたも。


で、ふとしたことで現実を しり、あることに自覚的になり、そして、なにかを かえる。自分の なにかを かえる。意識だけでなくて、行動を かえる。


意識しようとしまいと、行動を かえないことには、たいした意味はないでしょう。


そして、行動を かえまいとするひとは、なにかに自覚的でありながらも、行動を かえないということも あるはずです。しらないから、無自覚だから、だけではない。

自覚しろと いっても、いたくも かゆくもないひとも いるはずです。それでも、ちょっとくらいは うっとおしい気分になるかもしれません。だったら、それも いいよね。


わたし、いやがらせ だいすき。


「自覚しろ」っていう いやがらせも、それは それで いい。


それにしても、現実を しろうと、しるまいと、なんだろうが、なかなか かんがえかたってのは、かわりませんね。

けどさ、なかには、ものすごく 柔軟なひとも いますね。うてば ひびく すてきなひと。

そういうひとに であうと、ものすごく うれしくなります。


「うっても、うたれたことを自覚するだけで、ひびかなかった」。

そういうことも あります。


「うったら、ひびいた」。


そういう、たのしいことも あります。

共鳴(きょーめー)といいますね。つまりは、ひびきあうということ。ひびきあうためには、自分が かたまっていては、だめなんです。


わたしも、ひびける ひとでなくちゃあ いけません。

ひびくとは、ゆらぐということでも あります。

ゆらぐことで、ふりかえる。そして、もがいて模索する。

そのとき、もう はじまっているのです。


朝鮮語に、すてきな ことわざが あります。

「シジャギ パニダ」。

はじまりは、半分だという意味です。はじめた時点で、もう半分は すすんだということです。


自覚することは、その はじめる一歩手前に いることです。そこから、一歩も すすまないか、すすんでいくのか。

どちらの方向に すすんでいくのか。