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あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

居場所を つくる。


少数派は少数であるために「目立たない」ようにも みえますが、そうではありません。社会の少数派は、なんらかの「しるし」が つけられていて、多数派の注目をあびやすい存在だと いえます。「出る杭は打たれる」ということばにも あるように、少数派は、めだつのです。その反面、多数派は社会に埋没しているぶんだけ、安全だし、アイデンティティも自由に選択できます。しいてアイデンティティをもつ必要性さえ ありません。
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 問題は、個々人が どのように自分を 規定して名のろうとも、一方的に その自称を はぎとり、「在日」や「部落」のラベルを はりなおす ひとが いるということです。
なんのための構築主義か(少数派のアイデンティティについて)。 - hituziのブログじゃがー


 少数派は、めだつ。だから、かくれる。うっかりすると、たたかれる。びくびくさせられる。そういった立場に、特権が あるわけがないのです。それが特権的であるわけがないのです。


 差別者が、まさに「ラベル」というか、シールを はりつけた事件がありました。おぼえておきましょう。

 抑圧的な社会においては、少数派は おどおどさせられ、かくれさせられる。かくれるということは まさに、その空気に なじんでいるように ふるまう。あるいは、距離を おくということです。それはつまり、強要された同化と排除ということです。
 自分の居場所で 居心地が ない気分を あじわうように強要されるということです。自分の居場所が なくなるということです。


 排外主義は「でていけ」という悪意ある発言に とどまるものではありません。まさに、空気でしかない社会の風潮のなかに、排外主義が あるのです。だから、少数派にとって いきぐるしい社会になるのです。制度の面でも、制限されているにもかかわらず。さらに、おぞましい空気に同調させられるということです。被差別者を 2度 ふみにじる社会。その社会を つくりかえないといけない。


 社会に居場所を つくる。差別から すこしでも解放された空間を つくる。それが、社会運動の ひとつの課題だと おもっています。