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『ベジタリアンの文化誌』

鶴田 静(つるた・しずか)『ベジタリアンの文化誌』晶文社


高校3年生のころ、図書館で よく よんだ。すてきな本です。文庫版がでていますが、1988年版から引用します。

まず、「ベジタリアンは主義の貫徹者などではない。どのように生きるか、どのような社会を望んでいるか、その考え方の表現者なのである」(31ページ)というのが いい。表現者というのが しっくりくる。

そして、ベジタリアニズムは「社会的な意味をもつもの」という指摘も うなづける(33ページ)。


最近よみかえして、なるほどなあと おもったのは、「「菜食主義」と訳されて移入された当時のベジタリアニズムが、日本人の菜食観をますます偏狭にしたことは否めないだろう。無意識に菜食民族だと思っている日本人が改めて“菜食”を意識する時、主義という冠のために特別なものになってしまう」(32ページ)という指摘だ。当時というのは、明治中期のこと。

仏教が日本列島に はいってきて肉食禁止令が でたりしたわけだが、「肉を食べなかったのは上流階級の者だけだった。農民などの庶民は、山や野で得たおいしい肉をたべていたのである」(26ページ)。そして、仏教が一般民衆に ひろまることで、非肉食が つづけられてきた、というように著者は まとめている(27ページ)。

おおざっぱにいって、そんなところだろうと おもう。ヨーロッパでベジタリアニズムが発生したころ、どれほど肉が たべられていたのか。その点から比較すれば、「菜食民族」という規定は、それほどには暴論ではないはずだ。


つまり、近代に はいって、ヨーロッパ人みたいに肉を たべなければという風潮が ひろまった。けれども、それでも たいして肉は たべていなかった。その当時に、ベジタリアニズムも紹介された。

そうなれば、「完全に 肉を くわない」という「主義めいたもの」を 「ベジタリアニズム」に意味づけしなければ、「ベジタリアン? それって、わたしらのこと?」ということになったわけだ。もちろん、「そうです。わたしたちのことです」と なれば よかったのだが、そうは ならなかった。

そして、いわゆる経済成長とともに、肉の消費量が どんどん ふえてきたわけだ。いまでもなお、アメリカやヨーロッパと比較すれば、肉の消費量は すくないのかもしれない。けど、だいぶん ちかづいているのではないかと予測している。

「わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ」と、むかしは いえたわけですね。そして、いまでは そうとも いえなくなってしまっている。

そして、だからこそ、あらためて「わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ」と、いいなおさなければ いけないんだと おもっています。


バランスを とるために。