hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

たのしい まいにち

いろいろと反響を いただいた おかげで、どわっと あれこれ かいてみました。どんなもんでしょうか。


いま、わたしの宿題は、「自閉者と自分勝手なコミュニケーション」の「その2」を かくこと。んー、こういうこと宣言して、ほんまに かくことって、あんまりないんだけどねえ。けど、かくよ。そのうち。かきたい内容は、頭に あるんだから、いざとなれば、かけてしまうでしょう。


「どれほどの ことばが必要だっていうの? たった一言でも いいじゃない? なのに、あたしは…。あなたは…」という内容になるはずです。


あとはねー。韓国の『当代批評』という雑誌でよんだ「ある非異性愛者、異性愛を問う」という文章の紹介。これねー、すばらしいんですよ。わたしは よく「視点をひっくりかえす重要性(少数派について)」ということを かいています。これって、この「異性愛を問う」という文章の影響があるように おもいます。


てゆーか、ま、いろんなことがリンクしてるってことでしょね。おなじ時代を いきているということは、わたしたちは、いろんなことで つながっている。


よーし。きょうは映画をみます。『許されざるもの』という韓国の映画。紹介文を みつけました(輝国山人(てるくに さんじん)の韓国映画 ユン・ジョンビン 許されざるもの)。このサイトの紹介は、けっこう いけてるはずです。


映画といえば、『サムサッカー』が めっちゃ みたい。いいよねえ、あの映画。


ほんとうに、ながれるような毎日で、ふと気がつくと、しあわせな涙で いっぱいになる。ほんとうに、たくさんのことに ありがとう。

「世界に一つだけの花」に手話コーラスをつける政治性

槇原 敬之(まきはら のりゆき)さんが作詞・作曲・編曲した「世界に一つだけの花」(リンク先はウィキペディア)。

あの曲ね、わりと すきですよ。あの曲の歌詞は すばらしいという視点にたって、以下のとおり作文します。


手話コーラスとは、なんでしょうか。あれはつまり、日本語の歌に手話の単語を わりふるということです。日本語の歌を うたいながら、歌詞の一部を英語の単語に訳したカードを提示するようなものです。

手話コーラスは、「手話」と いえるようなものではありません。

日本の ろう者が使用している手話言語は、日本手話です。日本手話は、日本語を手で表現したものではありません。

手話と音声言語では、まず言語形態が ちがいます。音声をつかう形態と視覚による形態という ちがいがあるわけです。そして、日本手話と日本語は、言語形態だけでなく、言語体系も ちがうのです。

はっきりといえば、日本手話と日本語は、別の言語なのです。もちろん、ろう者は日本語話者が多数派をしめる社会で生活しているため、日本手話には日本語からの外来語が ふくまれています。けれども、いくら外来語をとりいれようとも、言語体系は ちがうのです。

たとえば、英語(イングランド語)などは、ものすごく外来語が たくさんある言語ですが、それでも英語は英語なわけです。言語として純粋だという はなしじゃありませんよ。いくら外来語をとりいれても、文法体系は維持されているということです。ここで、厳密に いえば…とか、そういう はなしは しないでください(笑)。

世界に一つだけの花」という歌は、いろんな花があって、それぞれ きれいだと主張しています。なんで ほかと比較してしまうんだろうって疑問を なげかけています。

多様性を 尊重しようってことだと おもいます。

で、問題なのは、「世界に一つだけの花」に「手話コーラス」を つけるのは、この歌の理念に そっているのだろうかということです。

日本では1995年に『現代思想』という雑誌に「ろう文化宣言-言語的少数者としてのろう者」という文章が掲載されました。かいたのは、ろう者と手話言語学者です(木村晴美=きむら・はるみ、市田泰弘=いちだ・やすひろ)。

その木村さんが『日本手話とろう文化』という本を生活書院から だしています。この本では、手話コーラスについて、つぎのように のべられています。


 手話コーラスや手話ソングが、メロディや音楽にあわせた手話表現である限り、それは聴文化の副産物に過ぎず、聴文化とろう文化のコラボレーションなどと形容してはいけない。
192ページ。


木村さんのブログ『ろう者で日本人で…』も みてください。

ここで、興味ぶかいページをご紹介します。

これを みると、あの「ふりつけ」は手話ではない、メンバーも そういっていると かいてあります。なるほど。「世界に一つだけの花」を うたったスマップとしては、ふりつけは したけれど、あれは手話ではないという立場だそうです。

ただ、あの曲が流行したがゆえに、あのふりつけ=手話という認識が ひとりあるきしたとは いえそうです。たとえば手話ソング「世界に一つだけの花」というページをみると、手話ソングの ひとつとして紹介されているのを みることが できます。

「手話で歌ったよ、「世界に一つだけの花」」という記事もあります。

『世界にひとつだけの花』考 - Ohnoblog 2のコメント欄では、「あと全否定したいのは「この歌を手話で歌う子供達」。なんで聴覚障害者のいない自分たちの生活発表会でそんなことするんだと、意味が解らない。」というのが ありました。

聴覚障害者のいる場所で手話コーラスをやるのは、そのほうが むなしいことです。聴者による、聴者のための、聴者が たのしむ手話コーラスを、ろう者にみせる意義が あるでしょうか。

聴覚を要求する音楽に、ちょっとくらい手話の単語をならべてみせたところで、それは「聴者の文化」のワクから、一歩も そとには でていないのです。


それにしても、スマップ メンバーの立場は すばらしい。


手話コーラスといわれるものは すべて、「ふりつけ」に すぎないのです。欧米の映画で「日本人」が へんなふうに えがかれていると、いやな気分になるひとも いますよね。それの どこが「日本人」なんだよと。

それと おなじことで、はい手話コーラスです、手話ですと いわれたところで、ろう者は こまってしまうということでしょう。


リンク:SMAP「世界に一つだけの花」は、ネオリベ礼賛の歌です - 女教師ブログ


追加リンク1:ろう者で日本人で・・・ : No.067 ろう者のカラオケ
追加リンク2:宮本一郎(みやもと・いちろう)ブログ: 手話コーラスについて
追加リンク3:手話コーラスについて調べ、考えてみた(マンガの中の聴覚障害者)
追加リンク4:手話言語学入門 - 手話文法研究室