hituziのブログじゃがー

ツイッターは おわった。もっぺんブログの時代じゃ。

だれかの都合を優先して。

 だれかの都合を優先して、この社会が つくられ、だれかにとっては すごしやすい空間が できあがっている。そこで不便を感じている ひとが不満をうったえると、不満の声をあげること自体に猛反発をうける。そういうことが、ほんとうに よくある。

 gooブログがサービス終了するそうだ。あわてて旧ブログ(hituziのブログ 無料体験コース)の ひっこし作業をした。2004年から2008年まで やっていた。2008年から、はてなダイヤリーをつかっている。その後、はてなもサービスの変更があり、「はてなブログ」という、いまの形式になった。


 旧ブログの記事をいくつかよみなおして、ひとつ印象に のこったものがあった。「学校、教育、よみかき計算」という2007年9月27日の記事。

よみかき計算は まなばなくちゃあ いけないじゃないかという。教育させねばならないという。けれども、何語で、どのような文字表記で、字のおおきさは何ポイントで、照明のあかるさは どれくらいで、教室の人数はどれくらいで、テストはどんなふうにして。なやみは つきないはずだ。ひとのかずだけ なやみがあるはずだ。けれども、それを無視しつづけないかぎり、学校制度なんて もたないんじゃないか。

だから、「強制的にでも おしえるべきことがある」というのなら、自分にとって たまたま都合よくカスタマイズされていた教育方法のありかたに感謝しながら、うしろめたさを感じるべきだ。自分に都合よいかたちで配慮されつづけてきたことをふりかえり、そんなことだからこそ、「教育なんかいらない」だとか、「学校をなくす」べきだなんて発言せずにすんだことを、わかっておかなければならない。

説教くさいな、おい。

 インクルーシブ教育とか、教育のユニバーサルデザイン、そういった用語で議論され、実践されつつあることは、「ひとのかずだけ なやみがある」ことに直面している。その なやましさのなかに、大事なことがある。逆に いうと、教育は すばらしいものだ、必要不可欠なものだと断定する議論のなかでは無視されやすいことである。わたしは、そういうことを「よみかき」をテーマに議論してきた。いろいろと文章をかいてきたけれども、ゆっくりとしていて、なにも変化をうみだせていないように感じる。まとめられていないと感じる。けれども18年まえから すれば、いくつか すすんだこともある。わたしとは関係なしに、社会が変化してきたところがある。もちろん、かわっていないこともある。解決していないことがある。その両方をみないといけないのだろう。定期的に確認しないといけないのだろう。