今年、はじめてケータイをもった。アンチケータイだったので、くやしかったけれども、ケータイ文化を研究したい気もちも あったので、いい機会だと おもうことにする。
爆発的に普及するものというのは、なにかと差別的だと おもう。なぜなら断絶をうみだすから。「ケータイ八分」とでも いえる状況が あるのも現実。ただ、ケータイが うみだすもの、注目すべき利点も やはりある。ろう者にとって、ケータイメールはファックスにかわる通信手段になった。わたしの友だちは脳性まひで、言語障害があるので(つまり、声が ほとんど ききとれない)、ケータイで話をしていた。ケータイはポケットサイズのワープロであり、辞書なのだ(韓国では辞書としては つかっていない。なぜなら漢字をつかわないから)。
斉藤貴男(さいとう・たかお)『安心のファシズム』(岩波新書)では、「ケータイを持たない者がこの国の社会で生きることは、今やとてつもなく難しくなった」とする(64ページ)。韓国の『われわれの中のファシズム』という本でも、そういう文面が あった(いま手もとにない)。
とりあえず、あれこれ研究してみるしかない。先行研究も たくさんあるみたい。『ポケベル・ケータイ主義!』(ジャストシステム)なんかが おもしろそう。
グーグル:「ケータイ文化」 / 「ケータイ 障害者」 / 「ケータイ 参考文献」