「うらぎられた」というのは、どういうことだろう。「あれだけ信じていたのに、わたしのこと なんにも わかってなかったのね」。などなど。
あるいは、「この程度じゃ満足できない」というのは、どういうことだろう。具体的に いえば、「論理が とおっていない」「矛盾だらけだ」「あれやこれやの議論をふまえていない」とか、そういう批判ね。
こういう気もちというのは、他人にたいする期待の度あいが ひくければ、でてこない反応だろうと おもう。「人間そんなもんだ」と わりきっておくほうが、人生たのしいんじゃないかしら。期待が適度に ひくければ、逆にその人や その人の作品、文章などに魅力をみいだすことが できる。なぜなら、最初から おおくをもとめては いないからだ。どんなものにも魅力をみいだせる人というのは、つまりは完璧主義者じゃないわけよね。それは、ある意味では、どこかに つめたさをもっているということ。
期待度をあげるということは、ハードルをあげるということだ。つまりは、そのハードルをこえれたか どうかで判断するようになる。そのハードルが すっごく たかければ、「うらぎられた」とか「失望した」、あるいは「ケイベツする」とまで いく。神様とか孤高の人であれば、それも いいだろう。しかしながら、ハードルをたかく つくった「おとしまえ」は しっかり自分で ひきうけないと だめでしょうね。また、人間に なんの期待も もっていないという人も、やっぱり神様とか孤高の人になりがちだ。でも これは、期待の たかさ(完璧主義)の うらがえしなんだと おもう。
「人間が すきで すきでたまらない」という人がいる。しかし、その状態を維持するためには、ある部分で さめたところをもってないと無理が あるんじゃなかろうか。はたから みると、人に たいして やさしい人でも、こころのなかでは ひめられた冷静さ=つめたさをもっているんじゃなかろうか。
「うらぎられた」と感じる人が魅力的か、「そんなもんだ」と わりきる人が魅力的か。いちがいには いえないだろう。「どっちが いいのか?」という対立のさせかたは つまらない。でも、こういうふうに空想してみるのは おもしろいことだ。
グーグル:「期待と失望」