なにもかも、はじまってしまえば なんとかなるものだ。波にそのまま のれてしまうものだ。はじまってしまえば、その気になるものだ。
けどそれも、はじまってしまわなければ、なかなか わからないものだ。ときには、せなかをおしてもらうことも大事でしょうよ。
こどものころ ゆーうつに感じていたのは、自分がハタチになり、いつかは「おじいちゃん」のような年齢になるということが、信じられないということだった。あまりにも、とおくて はてしない道のように感じたから。
どうにも時間は ながれるし、どんなときも、それなりに波にのって いきていけるのだと、そんな あたりまえなことが わかったのは、そんなに むかしじゃない気がする。
めのまえに、はてしない階段が ひろがっていて、これは のぼれやしないって あきらめそうになった。それをいったら、「その階段も、いずれはエスカレーターに かわるときが くるであろう」と、そんなことをいわれた。なんという ありがたい はげましだろうかと おもう。そして、なんて ほんとのことなんだろうと、いま おもう。なにをも なしとげてはいないけど、それが ほんとのことだってくらいは、わかったようには感じる。
そして。
自分の時間を、ゆったりと とらえられるようになった いま、べつに階段でも いいやと おもう。エスカレーターじゃなくても いいやと おもう。
はじめてしまったことだから、もう波には のっているのだから、なにを心配することが ありましょう。なにをためらうことが ありましょう。エスカレーターじゃなくても。はてのない、頂上のみえない階段であっても。