「その人の問題意識」をよんで、そこから「その人の問題意識」のグーグル検索にとんでみた。
そこから日本青年心理学会事務局が発行しているニュースレターの「第31号 2003.7.30」に たどりついた。
◆そこに、「研究テーマと「私」との関係」という水間玲子(みずま・れいこ)さんの文章がある。この文体。あぁ、わたしと おんなじ語呂あわせをしている。うりふたつではあれど、わたしの文章よりも断然すてきだ。それにしても。よく にている。
◆もうひとつ。つい最近、浜田寿美男(はまだ・すみお)1999『「私」とは何か-ことばと身体の出会い』講談社選書メチエを手にいれた。この文章。わたしは、現時点では、こういう文章をかきたいのだ。かこうとしているのだ。
文体よりも、内容の問題ではないのか。
たしかにそうだ。けれども、文体が内容のひどさをごかますことがあり、また、内容のよさを、文体が ぶちこわしにすることがある。自己満足のための文章ではないかぎり、どちらも よりよいものをめざさなくてはならない。
◆かつて、坂口安吾(さかぐち・あんご)は つぎのようにいった。
美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ、「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たわいもない細工物になってしまう。「日本文化私観」より。1942年にかかれたもの。そして、1951年に かかれた「戦後文章論」の冒頭では、つぎのように かいている。
言葉は生きているものだ。しかし、生きている文章はめったにありません。ふだん話をするときの言葉で文章を書いても、それだけで文章がいきてくるワケには参らないが、話す言葉の方に生きた血が通い易いのは当然でしょう。会話にも話術というものがあるのだから、文章にも話術が必要なのは当り前、話をするように書いただけですむ筈[はず]はありません。このエッセイでは、漫画家の文章をほめており、また、大岡昇平(おおおか・しょうへい)と三島由紀夫(みしま・ゆきお)の文章を「戦後の文章に新風をもたらした」としたうえで、「小説よりも文章が濃すぎるオモムキがありますよ」と指摘している。「言葉にとらわれずに、もっと、もっと、物語にとらわれなさいよ」。このフレーズがすきだ。
◆さて、この「ブログ」の文章はさておき、今後、「まじめな文章」では、「ブンガクテキ(文学的)」な文体をとりはらうつもりでいる。淡々としながらも、内容そのものがもつ力づよさを、表現してみたい。
あーー、「表現してみたい。」と かいてすぐに、「表現してみたいのだ」に かえようかと おもってしまった。これは重症だ(笑)。どうでも いいことなのに。