わたしは、一部では有名な花崗岩の産地で うまれた(岡山市)。いまとなっては、町内に在日朝鮮人の部落があったことをしってはいるが、どこに あったのかをしらない。いや、まだ すんでいるんであって、わたしが しらないだけだ。みえなくなったわけだから。
地名で検索していて、むかしは町内でブタが飼育されていたことをしる。当時、おおくの被差別者が家畜の飼育に たずさわっていたことくらいは わかる。かんがえてみれば わかることではあるが、いままで、その光景がイメージできなかったのだ。いや、いまもイメージすることはできない。
わたしの年少のころからいっても、近所の風景は おおきく かわった。かわったのは わかるが、その「年少のころ」の風景が うまく おもいだせるわけでもない。
郷土史をひもとかねばと おもう。
マンガ『特攻の島』には主人公が残飯を回収して まわるシーンがでてくる。自分のうちで飼育しているブタのえさだ。
全体的に まずしかった時期だったから残飯を回収する光景が みられたんだろうし、まずしいなかで、上下のランクをつけていったのだろう。では、わたしの町内のブタは、いつ いなくなったのだろう。つまり、ブタの飼育が おわったのは、いつごろなのだろう。そして、システム化された屠場が できはじめたのが、いつごろなのだろう。
いわゆる「「少年」のような」疑問ではあるが、しらずには おさまらない気がする。
上原善弘(うえはら・よしひろ)『被差別の食卓』(新潮新書)から引用する。
わたしが子供のころ、むらの端を流れる川には、近くの肉工場から流された血の線がゆらゆらとのびていた。ドブ川には、牛舎から逃げ出した子牛が突っ伏して死んでいた。草っぱらには犬が拾ってきたのか、まだ肉のついた牛のほ足骨が転がっていた。わたしは、ブタをみることなしに、ただ、「朝鮮人をばかにする歌」をきいてそだった。ブタは、どこにいったのか。
(前略)…現在のむらはもう、以前の差別と貧困にいじめられたスラム的な姿ではない。現在の被差別部落問題は、そこに住む部落民自身をも内包し、さらに複雑な様相を呈している。(中略)この30年、日本中のどことも同じように、むらの風景も大きく変わった。(168-169ページ)