むかついていたので、げんきのでる映画でもみようと おもったのだが。以下は、つながらない日々に かきとめておいたもの。
うーん、よしとするかなあ。前半から躍動感のある音楽にのせて山田かまち(やまだ・かまち)の詩が朗読されながらうごきのあるカメラワークですすんでいく。たのしい。
中盤の告白シーンが学芸会の演劇っぽいのは、まあ告白という非日常のところだからよしとする。で、舞台はかまちの時代から現代にうつる。かまちに ほれられていたひとを中心にして。塾の講師をしていて、受講生のうちふたりが「いきることにつかれた」というかんじ。「いきたいかまち」と「死にたいこども」の対比。まあ、その対比自体はいいんだけど、死ぬなというときに、その対比をもって説得しようとするシーンには げんなり。しかもそこで「先生、ごめんなさい」じゃねーよ(笑)。わたしの表現では、「死にたいこども」ではなくて、「死にたいほどに いきたいこども」なので、かまちと そうしたこどもらに、絶対的な ちがいはないのだと おもっている。ラストで、こどもに かたったセリフ。なにをしてもいいから、ほんきで やりなさいというようなことば。これは、説得力があった。
基本的に音楽がよかった。だけど、それも過去形になってしまった。最後のほうで かまちと そのともだち役が渋谷で「アイドル風ラップ」をしているシーンがある。それも、かまちの詩にのせて。それはね。まだ ゆるせた。エンドロールが ながれたときに、えーーー(これは、したむきの「えーーー」)と。うえ4人のなまえに、かっこで(lead)とある。あぁ、アイドルだったのかあ。なーんだと。ちょっとそれで げんなりしたのだが、もうすこしして、曲がかわって、そのアイドルによる「アイドルラップ」が ながれる。ぶちこわし…。どうもだめだ。「アイドルラップ」なんて ことばはないけど、わかるひとは わかりますでしょ。うけつけないんだよねえ。
エンドロールをみていて、おお?っと よろこんだのは、アイルランドの民謡っぽいアレンジで「プリーズ・ミスター・ポストマン」(ビートルズのうた)をうたっていたのが、ボニーピンクだったこと。最近うれてるね。ボニーピンクは あんまりきいてないけど、何曲か気にいった曲がある。
現代のシーンにいくつか不満をもったが、山田かまちをよんだことのあるひとなら、たのしめる映画ではないかと おもう。すくなくとも前半は。