hituziのブログじゃがー

ツイッターは おわった。もっぺんブログの時代じゃ。

あせと たばこと禁煙と

◆きょうは、あたまが とろけるほどに あつかった。湿度も たかかったようだ。なにしろ、石釜で まきが もえさかっている厨房にいるわけですからね。しかも、コックコートをきてる。あせだく…。

なのだが、ほかのコックさんたちは、あついのは いっしょだけど、あせをかく量がちがうのよね。きょうなんか、あまりにも あせをかいてるので、わらわれましたよ(笑)。やっぱ家で冷房をつかってないのが おっきんだろか。新陳代謝ねえ。たしかに よさそうだと自分でも感じる。

◆7月から たばこをやめてるんだが、余計に健康になったような気もし。すいたかったら すうし、すいたくなくなったら やめる。「わたしにとっては」禁煙だなんだってのは、なんともないようです。いやみに きこえるひとも いるだろうから、遠慮がちにいうけど、たばこ やめたかったら、かわなければ ええやん…。

ともかく、たばこの中毒性ということが いわれすぎているために、じっさい以上にたばこの中毒性というものが あるように感じられてしまい、「禁煙できない!」とおもいこまされている面もあるのではないでしょうか。1日に一箱以上すっているひとなどは、まさに中毒であって、すぐさまやめるというのは無理でしょうが、1日にかぞえるほど すってるだけのひとは、それほど禁煙がつらいとは おもえず。というか、そういうひとは禁煙する必要があるともおもえず。ていうか、毎日何箱もすっているひとにしたって、禁煙しないといけないとは まったく おもえず。あれ? なんのはなしだ。すきなよーにしなさいってこった。

◆いやね、たばこをやめたのは何回かぶりなんだけど、今回感じたのは、たばこをすっていると、すいたくもないのに、「もう一本」すうようになってしまい、それは、たばこが すいたいと「おもいこみたい」というような状態だったなと。よく「ニコチンがきれた」とかいってるけど、それって どーなのかねえって。

いわゆる「中毒」というものは、自分の意思では いかんとも しがたいものであることをさすんだと おもいます。けれど、中毒という ことばの使用が ひろがっていくにつれて、なんでもかんでも中毒であるように感じられてしまう。そういうこともあるような気がするのです。その線ひきが むずかしいというか、線なんて ひけないんだけども。