ゆめを みるひとです。おもいえがく ひとです。想像力が ゆたかです。
わーい。
妄想するのは、たのしいことです。たのしいことを妄想するのが たのしいというより、妄想すること自体が たのしいことです。ええ、わたしにとっては。
なにをいうときにも、「わたしにとっては」という注釈をつける。それが わたしのモットーです。
「性差別と性別主義」にトラックバックをいただきました。うれしいことです。反応をかくまえに、これまで かいた記事をご紹介しましょう。
「自閉症が わからない。人間像をぶちこわせ。」
「人間は、「なるもの」とか「であるもの」なんかじゃないんだ。するものなんだ。」
「ジェンダーは行為だ、するものなんだ。」
くりかえします。
「オトコとかオンナとかってのが実体として つよくイメージされていて、それが うたがわれることがない、という状態」を、わたしは批判します。
「人間というのは ただ、「にたものどうし」ってだけのことです。「人間の概念、さきに ありき」じゃ いけないのです。」
「「人間」なんて どこに いるんですか。人間こそ、想像上の幻想にすぎませんよ。家族的類似による「人間」の ぼやけたイメージをもっていて、そのイメージに そっている ひとを人間だと認識するのでしょう。だから、さきに「人間という総体」を想定してはいけないのだと おもいます。」
「はだかになろう。人間像をぶちこわしましょう。」
さて、いただいたトラックバックに おへんじします。
「ダブルスタンダードが生み出す妄想でしかない」(Kazu'Sの戯言Blog(新館))
「いやがらせじゃないよ」ってのは、「わたしにとっては」っていう それだけのことです。当然ながら、そのとおりだと こたえます。あたりまえですよね。で、なにか問題になるでしょうか。
同じ理屈で「いやがらせ」だと感じるのも「わたしにとっては」っていうだけのことだろう(笑) って言われたらなんて答えるんでしょうか。
いやなことをされているひとが「いやだ」という。そういうもんでしょ?
「え、あ、いやだったの? 気づかなかったよ。ごめん。」とか。
「ん、いやだって? しらねーよ、そんなもん。うるせー。」とか。
「そこで自分は、どう反応するのか」という主体的な問題です。
しかし、おかしいのは性差や年齢という括りは認めていないのに、人間という括りだけは認めているという点です。完全なダブルスタンダードですね。ですねー。わたしも、かきながら気になりました。ええ。だから、「人間というのは ただ、「にたものどうし」ってだけのことです。「人間の概念、さきに ありき」じゃ いけないのです。」とも かいたんです。
結局のところは、「人間って なんなのよ?」って問題に いきつくわけですから。
その点を修正して、性差も年齢差も人間もそれ以外も認めないとするなら、個だけが残ることになり、個だけが残ればみんな違うって考え方が成立します。違うのであれば異なった扱いを受けるのはなんら不思議じゃ無い訳で、便宜上、効率上、括りも認めざるを得ないということになります。で、「個だけが残る」という点については、個って なにを基準にするのよ?って問題をひきおこすようにも感じます。だから、「ひとりの人間とは なにか?という問題」について、かるく ふれました。
で、「違うのであれば異なった扱いを受けるのはなんら不思議じゃ無い訳で、便宜上、効率上、括りも認めざるを得ないということになります。」という ご指摘については、よく わかりません。「便宜上、効率上、括りも認めざるを得ない」のは、だれにとってでしょうか。
多数にとってとか、管理をするひとにとってなら、そのとおりでしょう。あるいは、わたしも そういう都合で くくりをみとめることが あるかもしれません。
ええ。
で、「わたしの都合」として、そういった「だれかが つくった くくり」を批判しても、べつに いいじゃないですか。
だれかが都合で くくりをつくって、また だれかが 都合で破壊して、あらたにまた くくりが つくられ、破壊され…。永遠に つづくかもしれません。
で、それで いいじゃないですか。
いっておきますけど、わたしはファイナル アンサー、最終的な結論をこのブログに かいているわけではありません。
わたしの文章には、ただ、時代的、文脈的、瞬間的な意味しかありません。それで いいじゃないですか。
ファイナル アンサーなんてものが どこかにあるなら、もー おわったようなもんじゃないですか。
最後に、むかし かいた文章をご紹介しておきます。
「断言しても仕方がない。だけども、それでも とりあえず。」