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構築されつつあるものとしての「自然」

アプリオリに「自然」は存在するか」。

自然という名づけが言語によるものである以上、自然は人間(言語)によって構築されるものである。ガーゲンが指摘しているように、「何かは、単にそこにあ」るのだ(『あなたへの社会構成主義』328ページ)。それがなんであるかを言語化するプロセスにおいて、「それ」は言説の世界へとくみこまれていくのである。

人間界と自然界はアプリオリに存在するものではない。人間なくして自然はないのである。自然がまず事前に存在して、それからそこに人間の介入がくわえられるのではない。人間の みなし、フィルター、言語、介入、人為…表現はなんでもよい、それら人間の具体的な行為によってこそ、そのたびに事後的に「それ以前」として自然が構築されるのである。

つまり、はたらきかけ(人為)が事後的にそれ以前(自然)を構築するのであり、アプリオリに自然は存在しえない。自然はたえず構築されつつあるものであり、更新されつづけるものである。それゆえ、それ以前の人為が忘却されていく。そうしたことから、あらたな人為が意識されるとき「それ以前」が自然とみなされることがあるのである。

忘却されるのは、更新されたら「それ以前」がみえなくなるためであり、たとえば、グーグルのキャッシュのキャッシュのキャッシュのキャッシュ…によってウェブ・アーカイブができあがるわけではなく、キャッシュが更新されるごとに、それ以前は消去される。消去が忘却をひきおこすのはとくに不思議なことではない。

研究者は「それ以前」をしめしてみせることがときに可能であるが、キャッシュのキャッシュなど、ふつうは記憶も記録もしないものである。

ふつうは記憶も記録もされず、歴史が神話化されるがために、研究者が歴史を脱構築し、脱神話化することが可能になるのである。

自然の素朴実在論脱構築もまた、自然を自然視する、つまり、自然を所与のものとする観点が定着していればこそ、意味をもつのである。「自然はアプリオリに存在するか」という設問が意味をなすのは、それが真理をついた根源的な設問であるからではない。


……。柄谷行人(からたに・こうじん)が これに関連することをいうてましたよね…。内容が おもいだせない。『日本近代文学の起源』だったはずだが…。検索してでてくるのは、「風景」についてだけ…。うう。