以前の議論は、「構築されつつあるものとしての「自然」」と「酸素の誕生から かんがえる「環境」」をみてください。
まず、ジュディス・バトラーの引用から議論をはじめたい。
「ジェンダーが構築物だという主張は、ジェンダーが幻にすぎず、人工物にすぎないと述べて、それに「本物」や「真正さ」を二元的に対立させることではない」。(『ジェンダー・トラブル』71ページ)なになには自然の産物ではなく、社会的構築物だと主張するのは、「手つかずの所与の自然」という概念を無批判に想定(肯定)するためではない。
自然物と人工物という対比は、どこまでも不毛なものである。それは、自然というものはどこにも存在せず、人工的につくられた概念であるにもかかわらず、お約束として、「自然というものが あることにしている」からである。それのみならず、みんなで そういうことにしているうちに、自然というものが、「たしかに存在するように感じられるようになってしまっている」からである。だが、具体的な人為が抽象的なかたちで自然概念を構築するのであり、人工をはなれたところに自然を想定するのは、おのずと無理があるのだ。
なぜ不毛なのか。ひとつリンクをはろう。
リンク:「自然保護ほど<人工的なもの>はないのではないでしょうか?」AOL Q&A広場
これは本末転倒というやつだ。
「自然破壊は よくないことだ」と人間が かんがえた。そして、かんがえた。人間がなすことの大半は、自然破壊なのでは なかろうか。もうすこし、持続可能な社会設計にするほうが いいんじゃないか。そうすれば、自然破壊は おさえられる。それは人間にとっていいことだ。…ということで、「人工的なものは よくない」「自然はいい」という意識が めばえたのである。めばえて、そして、定着した。
この「定着」というプロセスこそ、本末転倒をうみやすくする。
はなしをもどす。
自然なんてものは どこにも存在しない。あるのは、これは「自然」だという人間の「みなし」だけである。すべてのものは、「なにか」でしかない。なにかを「ほかのもの」と区別しとりだし、そして、「それ」を説明するのが言語というものである。ここで気をつける必要があるのは、「総体としての なにか」から、「一部のなにか」をとりだすさいに、「なにか それ自体」をそれ自体によって とりだすことは不可能であるということだ。どんなものであれ、「総体としての なにか」からアプリオリに境界線が ひかれているなどということはない。すべてが連続しているのだ。
どのような言語であれ、それは「「対象」に名前をつけたものの集合」などではない。アプリオリに「きりとられた かたち」で すべての ものごとが存在し、それに名前をつけたのが言語、ではないのである。
自然という語の意味は、具体的で はっきりと定義できる なにかがアプリオリに存在し、それを「自然」という言語音で むすびつけているのではない。具体的な言語の使用、つまり、自然をかたる言説のなかで、「自然の意味」は規定されるのである。つまり、自然をかたる文脈と場面が ちがってくれば、その自然の意味あいも ことなってくる。
自然という言語音や字づらを共有しているからといって、「この自然とあの自然」を同一視するのは、それが便宜によるものであろうと、まちがいである。自然の意味を決定するのは、自然をかたる「それぞれの」文脈に ほからならない。もちろん、「この自然とあの自然」は、ヴィトゲンシュタインのいう「家族的類似性」をもつだろう。だが、それは類似であってイコールではない。
では、われわれが自然概念を必要とするのは、なぜだろうか。どのような目的があるのだろうか。やっかいなことに、ひとつには、「人工と区別するため」であるのだ(笑)。
人工と区別しようのないものを、無理に区別しようというのだから、不毛なのである。
もうひとつ、注意すべきことがある。「自然に」という語は、「自然」という語に助詞の「に」が ついたもの、などではないということである。「自然に」で ひとつの語を形成しているのであり、「自然に」と「自然」を安易に関連づけることもまた、それが便宜によるものであろうとも、まちがいなのである。文法論的には、「自然に」を「自然」と「に」に区分することが可能であろうとも、である。もちろん、そこにもまた家族的類似はある。
まとめよう。たとえば、言語現象は自然現象ではなく社会現象だと主張するとしよう。その言明に熱中するうちに、自然概念の構築性をみすごしたり、「自然」の意味論をおろそかにしたりするならば、そのひとが のべる「社会構築性」など、たいした議論ではないのだ。
「である」から「であるべき」をみちびだすことはできない。事実にかんする議論とは べつのところで、われわれは価値判断や社会設計について議論することができる。
それならば、であるか/そうでないかの議論は ほどほどにして、どうあるべきかの議論に集中したほうがよい。
付記:題を修正しました(「人工物としての自然概念」から「概念」をとった。だって概念が人工物だなんて あたりまえすぎるもん)。