hituziのブログじゃがー

ツイッターは おわった。もっぺんブログの時代じゃ。

立場と主張と

1. だれの発言であろうと、ただしいことは ただしいんだよ、こんにゃろー。
2. あんたが それ いうんかい。あきれるにも ほどがある。

1のほうはさ、科学理論なんかを想定すると わかりやすいでしょ。
2のわかりやすい例は、イシハラシンタローのような くそったれが、移民をとりいれていくべきだなんて発言してたのをおもいだしてください。わたしも よくおぼえてないけど、そんなこと いってたでしょ。

立場性というのか、たち位置というのか、ポジショナリティというのか、まあ、主張(言説)の でどころと文脈を把握すること。こりゃね。あたりまえすぎるほどに重要で、客観的な立場なんてのは うたがってかかるべきですよ。科学でさえもね。けーれど、それだけに満足して そのさきにいかないのも どうかなと おもう。たまには、「うっせー、だれの発言だろうと、ただしいことは ただしいんだよ、こんにゃろー」と いうてもいいし、その必要がでてくる場面てのが あると おもう。わたし自身は、「ただしい」って表現は滅多のことがないと つかわないけどね。

当事者だからどーだとか、当事者じゃないからどーだとか。「わたしは ここに いきているから」というだけで、「かかわっていく」正当性はあるんだよ。死ねとでも いいたいのか、だまれと いいたいのか。え?

どのように かかわるのか、かかわることで なにが どうなり、それは なにを意味するのか。それはね。いろいろ かんがえないといけないことってのは ありますわよ。けーども、慎重になろうとしすぎたり、慎重になりなさいと だれかに要求することには、ちょっと慎重になりたい(笑)。

(それが おちですか。(いや…

ま、さきにあげたイシハラの例だけど、あれなんかは まさにイシハラらしい発言だったわけで、安易に都合のいい労働力として つかいたいだけ、難民をもっとうけいれるべきだという人権思想はなく、「ごちゃまぜ集団のほうが優秀」とかいう くだらない発想。「おめーが ゆーな」ってのは、「移住労働者に排他的な日本社会」というものの外側に自分をおいた発言だったということね。てわけで、ううー、例としてイシハラは不適当だった。ポイッ。

聖人君子でもなく無罪でもなく前科もちだけど、それでも かかわるんだと きめたのなら、やりゃ いいんだよ。だれの許可も いらねんだから。許可って、かみさまにでも おうかがいするんかい。

かるく はなしかわるけど、イム・ジヒョンさんの『敵対的共犯者たち』をよんでる。やっぱ共感できるねえ、イムさんのはなしは。イムさんのいう敵対的共犯関係というのは、韓国対中国とか、韓国と日本とか、南北朝鮮とか、いろいろあるみたい。それらの関係の非対称性というのもイムさんがインタビューで指摘されて みとめてるとおりなんだけど、非対称性だけをもって、沈黙すべきだなんて はなしにしてはいかんと おもう。韓国の右翼は、韓国の非転向長期囚を「未転向長期囚」だなんて いってきたんだよ。まだ転向しやがらないが、いまにでも転向させるぞってやつですよ。むなくそ わるい。

被差別者による解放運動というのも、そんなことに参加せざるをえない状況をつくりだした多数派に問題も責任もあるわけで、解放運動の にないては、被差別者であるべきなんて はなしはない。少数派にいらぬ二重の苦労をさせている多数派の責任があるだけだ。少数者の運動を賛美することなどできない。少数者による運動に成果があったとしよう。それは、二重の苦労をさせてしまったという多数派の過失が しめされているにすぎない。

お茶のんで こたつで ぬくぬくしてるのが一番いいに きまってんじゃねーか。

(それは、どういう意味でだ(笑)。ラクしたいというはなしか、社会運動「なんぞ」に労力をついやさせたことを問題にしてるのか。それって、社会運動をおとしめた発想でもあると おもうがな。

いや、きまってるもんは きまってるもん。こたつで ぬくぬく最高やん…。わたしは、いつも ふとんのなかで かいてますがね。ええ、いまも。


きょうは、このへんで。