これを「ぼんやりとした不安」というのだろうか。くらい かげがさした かなしみ。そんな感情にとらわれたとき、ひとは なにかをみうしなう。問題なのは、みうしなったあとに、なにをみいだすのか、ということではないか。
映画全体についての感想は かかない。エゴイズムについて かきたい。ただ、ひとことで いえば すきな映画だ。
納得できない生活に けりをつけるのか、あるいは、納得できない気もちをおさえて、おしだまっていきていくのか。選択。えらぶ自由。「わたし」は自由であるのだ。
ここ数十年のうちに離婚率が たかまっているという。あるひとは、家庭の崩壊であり、ゆゆしきことだという。身勝手だという。のこされた配偶者が、こどもが、かわいそうだという。
自分のすべてをささげるほどに「いとおしい だれか」というものが、この世のどこかに存在するんだなんて、とてもじゃないが わたしは想像もできない。うつくしいロマンの物語を共感できるひとも、そんなときも、それはあるでしょう。けれど、わたしはエゴイストでありたい。エゴイズムを肯定したい。そのあとに、エゴイストであることが どのようなことであるのかをかんがえてみたい。
アマゾンのレビューとみんなのシネマレビューの映画評をよんだ。きれいに評価がわかれている。くらくてダメだというひと。難解だというひと。そして、共感できるというひと。
もちろん、この映画にだれもが共感できるようなら、それはそれで おかしなことであるかもしれない。人生に くらいかげが さすようなことなど、ほんとは ないほうが いいのかもしれないから。その点については、なにも断言したくない。楽観的なひとと悲観的なひとで、きれいさっぱり二分できるわけではないのだから。
「更年期障害」の映画だという。自己中な女の映画だという。そんなことばをはきすてられる位置にいる「安全なひと」を、わたしは嫌悪する。なにが「更年期障害」だ。
人は捨てられた一方に同情して、捨てた一方を憎むけれども、捨てなければ捨てないために、捨てられた方と同価の苦痛を忍ばねばならないので、なべて失恋と得恋は苦痛において同価のものだと私は考えている。坂口安吾(さかぐち・あんご)「恋愛論」より安吾は、「続堕落論」で「まず裸になり、とらわれたるタブーをすて、己の真実の声をもとめよ」と のべている。「己の真実の声」というものが はたして あるもんだろうかとも おもうが、いいたいことは わかる。わかるけれども、それが なしがたいことであるということも想像できる。だから、安吾も「我々のなしうることは、ただ、少しずつよくなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしかあり得ない」とする。「人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない」からである。そんなものだろう。
わたしも、エゴイストでありたいと おもいつつ、どこかで「おひとよし」を演じようとしてしまう。それが、よわさなのか、つよさなのかは わからない。どちらだと いえるものでもない。それが わたし特有なものだとも おもわない。
ひとは それほど ちがうものではない。わたしは、そう かんがえている。エゴイズムの表現のしかたが、それぞれ ちがうだけだ。
グーグル:「めぐりあう時間たち」
2005年2月7日:表現のミスをちょっくら修正しました。『めぐりあう時間たち』は、2回目みてみたら、ちからづよさが印象にのこりました。ニコール・キッドマンが駅で夫にかたるシーン。名演でした。最後のジュリアン・ムーアのセリフも。