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手段と目的

今年に はいってから、「構築されつつあるものとしての「自然」」と、それから「酸素の誕生から かんがえる「環境」」てのをかき、映画『レント』をみたわけだが。

『レント』をみたあとにすぐね、貴戸理恵(きど・りえ)『コドモであり続けるためのスキル』理論社をよんだですよ。

「夢」と「進路」がつぎのように説明されてるのです。
「今」は進路によって定められてしまうが、夢を定めるのは「今」だ。つまり、進路は「今」を将来そうなるための「手段」にしてしまうけど、夢を見ている「今」は、未来のためにあるんじゃない。「今」のために未来の夢があるんだ。(67ページ)
いいね。この本は かってから2週間以上はたっているはずで、貴戸さんの本だから おもしろいんだろなと おもいながら、「コドモであり続ける」というフレーズに共感しなかったので放置していた。で、たまたま『レント』をみたあとに ひもといたのだけど、こんなところにも「今」が どうだの かいてあるやと おもって奇遇な感じ。

わたしのなかでは、もう『レント』のメッセージだけで満腹だったので、「今」だけに集中しても いかんぜよと手のひらをひっくりかえしたくなる。まーバランスが大事だということで、それは だれが「いましかない」といっていようと おなじこと。それは、ないがしろにしてしまっているものを再評価しようということなんである。

「歴史的にみれば、こういった風習/制度は近代以降に定着したもので、ながい目でみれば特殊なことなんだ」という脱構築も、「へーそうなんだ、安心した」という効力をねらってのこと。でも、「そんなこと いったって、いまはこういう時代なんだもの」といわれてしまうと、「そーなんだけどね…」となってしまう。それでも ひるまず「でも、それは かえられるんだよ」と いいかえす。その反応が「じゃあ、かえてみせてよ」だったとしたら? 「………」。

歴史をみること、いまをいきること、そして、おもいえがくこと。そのバランス。

歴史をみるのも、おもいえがくのも、それは目的じゃなくて手段。目的は、いくらでも設定できるが、ともかくも不安から解放されること、わらっていられること。とにかく、自分で きめること。手段は、ひとに おしえてもらうこともできるのだ。べつに意識して自分で きめなくても いい。大事なのは、これでいいとか、これはいやだという気もちをごまかさないこと。ごまかされないこと。

ことばとしては、よくわかることだったり、そんなのあたりまえと感じることであっても、じっさいには むずかしいのよね。そんなもんだ。

…と、あくまで「どーでも いい」ことをかいていくぞ、ということで。