hituziのブログじゃがー

ツイッターは おわった。もっぺんブログの時代じゃ。

ウェブで議論する

「ウェブに「他者」は現われるのか?」(kanjinaiさん、G★RDIASより)
私が道を歩いていたときに、私の前で倒れていたホームレスの人は、そのとき私にとって都合の悪い「他者」であった(これは私の事実体験であるということは前にも書いた)。私はその「他者」からの問いかけから逃げた(と私は思った)。私はこの生身の体でその人を助け起こしたり、救急車を呼ぶことはできた。が、しなかった。そのことが私をいままで追いかけてくるという意味でも、それは「他者」であったと思う。
ここでいう「他者」と、ウェブの掲示板やブログでの粘着的なコメント屋さんは ちがっていて、粘着コメントさんを、kanjinaiさんは「他者」とは みなさないんだ、「そこにあるのは、粘着的な自己確認の応酬でしかない。」というはなし。

さらに勝手に要約すると、ウェブで議論するのは、なかなか むずかしいことで、そんなに期待していない。また、コメントはその掲示板やブログの運営者が自由に削除できるものだというはなし。

そうでしょうね。すべてのコメントに ていねいに応答することは できませんわ。人気者さんや注目をあびているひとは、そうでしょう。

だけど、他者だ/他者でないというオレルールな区別は、あたしの趣味じゃない。こういうのって「哲学的」な論述のイヤなところが でていると、わたしは感じる。
ということで、わたしなりに かんがえてみる。ウェブで議論することについて。

ブログや掲示板は、議論する場として、しばしば みなされている。運営者の側は、身内が議論したり、情報交換したりするのが基本という位置づけにしているかもしれない。けれども、ウェブに公開しているなら、「道場やぶりさん」が登場する。不思議な現象なのだけど、「通りすがり」という なまえでコメントをかきこむひとは、ほぼみんな、相手をばかにした一言をかきのこして さっていく。

顔のみえるコミュニケーションでは、ここは議論する場所ですよ、時間ですよということが おたがいの同意のもとにない場合、いきなり「道場やぶり」はないのですよ。粘着しないんですよ。相手が目の前にいることによって、下手なことはできない、毒は はけないという「常識」が はたらいて、ほとんどのひとは、きっついことは いわないし、からんだりもしない。ウェブでなかったら「通りすがりさん」は毒をはけないのです。

しかも、ウェブとは ちがって、顔のみえるコミュニケーションでは、フィルターが かけられている。研究者にむかって、高卒の わからずやが議論をふっかけたりしない。研究者は、そんな低学歴とは つきあわないからだ。高卒の みなさんもしかり。

ウェブでの議論が不愉快だったり、不毛だったりするのは、そういったバカに でくわすからだ。

わたしは ふだん、院生や大学教員と顔をあわせて はなしをしたりすることが ほとんどないので、バカに ばっかり でくわして、無口になるのです。ま、年に何度かは研究者のあつまりに いくことが あるのですけどね。けれども、そのへんのバカと交友をもっていると、それはそれで参考になることが たくさんある。てゆーか、バカにされるのは、いつも こちらのほうだったりする(笑)。フリーターは してみるものである。

わたしは、ひとと あそんだりすることが ほとんどないので、メールをふくめてウェブくらいでしか議論するような場所がない。そういう立場からすると、ウェブで議論することができて、たいへん たすかっている。チャットを毎日のようにしていたときがあったが、あのころは、自分のしらない分野に くわしい ひとたちと議論をかわすことができて、いろいろと参考になった。貴重な体験だ。

最近は、ミクシィでたまに議論している。わるくない。

このブログは、そんなに読者がいないし、トラックバックをおくったりも ほっとんどしないので、コメントをいただくことは ほとんどない。粘着コメントも全然ない。だから、ウェブで議論することに わるい印象をもっていない。


そのひとが どのような日常をいきており、どのような社会的地位にあり、その掲示板やブログが どれほどの知名度があるか。ウェブでの議論にたいする印象は、それらによって きまる。あたりまえのことだ。

※そういえば2年前に「文字文化論からみたチャット」というのをかいた。くだらない文章だ。
付記(4月28日): このブログでも にたようなことを何度か かいた。リンクしておきます。

「『チャット恋愛学』」
「「厨房」とのコミュニケーション」
「荒らしとは、なにか」
「コミュニケーションに「限界がある」ということ」