漢字をかけるかどうかで ひとを評価するのは、くだらないことだ。さらには、漢字の知識を基準にして待遇が かわってしまったりするならば、不当なことだ。
毎日 漢字をつかっているひともいれば、漢字の知識が要求されない日常をおくっているひともいる。漢字の知識は普遍的な なにかではない。日本語をよみかきできるかどうかを認定するのに漢字がよめるかどうかを判断基準にどうしても ふくめなくてはならない必然性はない。
だが、漢字をよくしっているひとは、漢字の知識をだれもが共有しているべき社会生活の大前提であるかのように みなしてしまうことがある。
そんなひとでも、たとえばウェブ上の諸事情に くわしく通じていないことも当然ある。メールのあてさきを全角のローマ字で記入したがためにメールがおくれなかったり、ウェブページの「ソースを表示する」ということが理解できなかったりするわけである。ウェブを利用しているひとのうち、HTMLの知識をもっているひとなどは、ほんの一部にすぎない。
また たとえば、2ちゃんねるの利用上の注意をしっているひとなど、ほんの一部といえる。
あれこれ識字能力に たけているひとも、2ちゃんねるの利用上の注意をしらないことには、失敗してしまうことがある。たとえば、2ちゃんねる住人には、一瞬で ばれてしまう自作自演をやってしまうような。すべてのスレッドではないが、2ちゃんねるの かきこみには その日かぎりのIDが つく。
普遍的な知識や能力というものはない。自分にとって当然であることも、だれかにとっては異文化であったりする。
2ちゃんねるは、おそろしい空間でありうる。利用者の数という点だけをとっても、驚異的だといえる。だが、2ちゃんねるの おそろしさは、わたしや あなたが うたがいもしない「自分たちの日常」と、ほとんど かわらないのかもしれない。
わたしが当然だと おもっていることが、だれかにとっては「おそろしいこと」であるかもしれない。なにかを当然だと おもっている内容の問題もさることながら、それを当然だと おもっていること自体の問題もある。
「漢字の知識」を自明視するならば、漢字をよくしらないひとは、どうなるのか。それは常識がない、学がない、努力がたりないということなのか。だから、漢字がよめないことで不利になったとしても自己責任なのか。
ここで、「そうではない」と感じられるかどうかで、社会のありようは かわってくるのだ。