ゴルディアス(G★RDIAS)という共同運営のブログがある。おもしろい。
ここで、id:x0000000000さんが「「本当は、できるでしょう?」の原初的風景」という記事をかいている。疑問を感じた。いろいろと議論になっているようだが、よんでいない。もとの記事に感じたことだけ列挙する。まとはずれの批判かもしれないが、とりあえず。
x0000000000さんは、たとえばなしをしている。
【目の前に、募金箱がある。そこには「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれてある。それでも、その文字が目に入りながらも、私はおやつを買うとする。】
募金「できない」のではなく、「しない」のだという。そのとおりでしょう、それは。
つづけて、x0000000000さんは【それは、「おやつを買ったからあの人たちが死んだ」ということを、それがもし事実だとすれば受け入れなければならないことを、論理的には要請する。】という。
もし事実なら、うけいれないとでしょうね、ええ。
だけど、「200円」をはらうか、はらわないかは、どうでも いいんじゃないか。大事なのは、この世界に歴然たる貧富の格差がいま現にあり、日本では「おかし」が かえる金額で4人家族が1日くらすことができる地域があるということ。そしてなにより、その地域では そのお金が たりていないということだろう。
募金箱の「200円」は、「わたし」にそのような現実があることをおしえてくれた「きっかけ」にすぎない。わたしにとっては、募金箱をみた そのときが「はじまり」かもしれない。だが、そのような現実が できあがったのは、「わたし」が しっていようと いまいと、もっとまえからである。
想定として「200円」をもちだすのは、そのような格差の現実に「気づかせるための方便」として とらえておくべきではないか。200円すら はらわない わたしたち、ということなのか。「はらわない」ことを「はらえない」のだと自分をごまかすような「わたし」や「わたしたち」だというはなしなのか。そんなのは、やすっぽいはなしのように感じる。
それに、200円をはらわなかったら死んだというのは、なんだか おかしい。
問題は、わたしたちにとっての「きっかけ」などというものと、毎日の生活が おびやかされているひとたちの「歴史」とは、比較しようがないほどに、ことなっているということだ。ひとことでいえば、ことばどおりの意味で「生活水準」が まったくちがうのだ。
わたしたちが きのうきょう現実に気づきました、あるいは、かんがえるようになりましたということと、うまれたときから たべるものに こまっていましたというのでは、天と地のちがいだ。
200円がどうしたこうしたという議論も大事かもしれないが、あるひとには、ちゃんちゃら おかしく みえるだろう。
もちろん、わたしは たらふく たべている側の人間であるし、議論は議論として あっていいので200円の議論をとがめるつもりはない。だが、議論は議論として、「肝心なのは200円ではないだろう」くらいは、感じたままに かいておきたい。
【「間接的ではあろうが、私は人殺しである」】というのは、もっとまえから そうなのであって、募金箱をみても募金しなかった瞬間から「人殺し」になるのではない。
200円をはらわなければ「人殺し」などという想定は、「極端な例」をぶつけられたような印象をあたえてしまう。だが、この世界の現実は、「すでに極限状態にある」。わたしたちは、たえず、いきるか死ぬかのひとをこの世界に かかえている。みんなでこの世界をわけあっているのだとみなすなら、その責任は、みんなにあり、なによりも、ぬくぬくと いきている側の責任がおおきい。この現実に、もったいぶったはなしは いらない。
募金箱は、わたしたちがふだんは意識しない「過酷な現実への窓」なのである。