アイデンティティなんか どうでもいい。
学問は、アイデンティティなんぞを獲得するためにあるのではない。わたしは そう おもう。
アイデンティティというのは、自分がどのような環境、集団のなかに おかれるかによって、外から おのずと いやがおうにも規定されてしまうものであって、そこに積極的な なにかはない。ただ、自分が どんなひとたちと あいたいしているかによって、「自分は こうだな」とか感じるだけなのだ。
あらたにアイデンティティをえらびなおしたり発見したりして、興奮するようなことはある。けれどもそれは、アイデンティティが救世主であるからではない。身にそぐわないアイデンティティをあてがわれてきたからである。あわないから えらびなおすのだ。もちろんそれは、「よりよく」はなる。だが、その作業はじつは、「えらびなおす」という積極的な行為でありながら、同時に、依存的で非主体的な行為でもあるのだ。
よりフィットするアイデンティティをさがしても、「わたし」は他人とそれほど ちがうわけでもなく、そして、「わたし」は他人とそれほど おなじなわけでもない。アイデンティティなんてものが内面にあるとしても、正確に ことばにできるようなシロモノではないはずだ。
「性格」は人と人との間にあるという。比較することによってしか、その人の性格を記述することはできないのだと。もちろん、だからといって、その人のなかに なんにも ないわけではない。だが、記述しようとするならば、比較する だれかが必要になるのだ。
アイデンティティもしかり。すべての人に、なんらかのものが、内面に たずさえられていることは たしかであろう。しかし、それをことばにする、意識化する、宣言するときに、わたしたちは「言語の限界」に であうことになる。
ひとつ、内面にある「それ自体」を「それ自体よって」とりだすことはできない。ふたつ、たえずフィットしつづける ことばなど、どこにも ありはしない。
アイデンティティの ぬりかえは、快感であるかもしれぬ。だが、そのような作業にとりくむ必要にせまられるのは、いかなる背景があってのことか。
アイデンティティなんぞ、どうでもいいのだ。