自分が かいた論文をよんでもらう。そして、感想をもらう。ありがたいことだ。発表したものであるから、おねがいしなくても よんでもらえることがある。感想まで もらえることがある。めったにないことだが、いつでも うれしいことだと おもいます。
ひとつ、おもうのです。なにか論文をひとつ かきます。その文章は、どれほどにオリジナルで あたらしい内容であろうとも、これまでの議論の蓄積のうえに なされるものです。これまでの土台があってこその、一文なのだと おもっています。だから、ひとつの論文は、それで完結するものではなくて、そこから「ひろがっていくもの」、「つながっていくもの」だと おもいます。けれども、その論文の内容に ものすごく興味がそそられるというのでなければ、読者は そこで満足をします。ひとつの論文をよんで、そこからさきへは すすみません。それが残念なことのように おもうのです。
もちろん、それは しかたのないことでしょう。なかには興味をもってくださり、そのさきへと ずんずん すすんでいく ひとも いらっしゃることでしょう。だから、ひとつだけで満足されるひとが いようとも、それは しょうがないのかなと おもっているのです。しょうがないけれども、しょうがないからこそ、なるべく、できるかぎりは、みじかい文章であろうとも、あることについて はなしを完結させるのでなければ いけないのでしょう。
ひとつの論文の文脈は、かいたひとの文脈もあり、よむひとの文脈もあり、その両者の いきる時代と社会の文脈というものもあります。
2002年に「漢字という障害」という論文をかき、2006年に改訂版をかきました。
「漢字という障害」の着眼点は、「漢字が ひきおこす さまざまな問題」にあります。
これを補足する論文として、2004年に「漢字という権威」という論文をかきました。
「漢字という権威」のねらいは、漢字不可欠論の相対化にあります。いいかえると、「漢字は すばらしい」という観念について再検討したものです。つぎのページでPDFが公開されています。
「社会言語学」刊行会のウェブサイト→第4号→http://www.geocities.jp/syakaigengogaku/abe2004v2.pdf
これをよんでいただければ わかると おもいますが、この論文は、漢字不可欠論の相対化であって、漢字廃止論ではありません。「漢字という障害」でも「漢字をつかわない自由」ということをかきましたが、それも漢字廃止論ではありません。「漢字で かかないと絶対にだめ」というのをやめましょうという はなしです。
「漢字をやめるなんて できないよ」と おっしゃてくださっても、まったく かまいません。わたしは つぎのように かえします。
あなたの なまえを漢字でかくのを、できるかぎり やめてください。
人名漢字の問題を指摘するのは、なにも わたしや、梅棹忠夫(うめさお・ただお)、野村雅昭(のむら・まさあき)、ましこ・ひでのりに かぎりません。漢字を擁護する 井上ひさし(いのうえ・ひさし)や鈴木孝夫(すずき・たかお)までもが、程度のちがいはあれ、人名漢字を問題にしています。
そして、もうひとつ つきくわえます。
だれかの なまえを漢字でかくときは、かならず よみかたをそえてください。
わたしが といかけたいのは、漢字をやめるか、やめないかという「おおきな はなし」ではない。そういう「おおきな はなし」も、こういった ささいに みえる「ちいさな はなし」をクリアすることなしに、さきに すすめるはずがない。
このふたつの提案/要求が「ささいなこと」であるか、そうでないかは、この一文をよんだ それぞれの読者が こたえをだすことになります。
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