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「わたし」をかたちづくる関係性

「わたし」は こんな人間だと おもう、そんなイメージがありますよね。そのイメージがあまりに かたまってしまうと、自分で自分をしばってしまうことになる。

いろんなひとと つきあっていれば、その都度、いろんな「わたし」が おめみえすることになる。どれも自分であるのだけれど、そのときどきの「わたし」は、たんに自分の内面に一貫するものだけによって決定された「わたし」ではない。関係性が「わたし」をかたちづくるのだ。

ある面で、つめたく、攻撃的で。そんな「わたし」。そんな「わたし」をすてられそうだと おもった。けれど、そんなにすぐには かわれないのかもしれない、とも おもった。ある関係において、わたしは饒舌で あかるく、ときには攻撃的だった。なんだったんだろう。

とはいえ、内面のなかで一貫するもの、というか、だいじにしたいものというのも あるわけで、関係性だけに還元できるものではない。てゆーか、関係性が軽視されてるから、関係性が「わたし」をかたちづくる、なんて いいたくなるのでありましょう。

できることなら、性格がそのまま思想になってくれれば よろしいことだ。ん、思想が性格になればいい? どっちだ。ま、いいや。
…家康という人間の行蹟を見て、そこに彼を語る軸をさがすとすれば、それは彼の性格ではなくて、彼の思想であり、性格の上に意志がはたらき、一ツの思想に形成されて熟慮断行されたものが、家康の行蹟であり、家康という人間であった。
人生を性格と見るのは易断の弱点の一ツで、人生をひらくものは性格ではなく、意志であり、思想なのである。性格には正邪はないが、思想には正邪がある。人生の価値を決定するのはその正邪の方で、性格はそれ以前の原始なものと知るべきであろう(坂口安吾=さかぐち・あんご「安吾愛妻物語」)
このフレーズ、どこにかいてあったんだっけと ずっと さがしてたんだが、「安吾愛妻物語」って…。記憶にさえのこってなかったよ。
…その人の一生を本当にうごかすものは性格ではなくて、環境や偶然でもあるし、又、さらに、意志や思想であるが、それも偶然や環境等の諸条件の支配をまぬがれることはできない。
これも、あたりまえな はなしにすぎないともいえるが、わるくないフレーズだ。そうそう、安吾が人相うらないをされて、そのうらない結果を批評した文章だった。このエッセイ。

岩明均(いわあき・ひとし)のマンガ『七夕の国』でも、主人公の のほほんとした性格が、あきらかに思想性をもって あらわれている。「皆さんも、見えない何かにふりまわされてる自分があるんだとしたら、そろそろ考えてみちゃどうでしょうか……」。ふむ。

『七夕の国』は、ムラ社会の慣習というもののクサリ的側面、それって ただの しがらみやん、みたいなのも えがいてる。基本的には、ナゾというのは たしかにあって、その こたえというのは、なかなか わからないもの、もしかすると わかりようのないことなのかもしれないけれど、わからないことに ふりまわされるのは よそうじゃないか。そんな感じの内容で、その「わからないこと」がいつしか慣習になり、しきたりになり、自分たちをこりかたまらせるていたという。わからないことは わからねんだよってことだわね。ひらきなおろうよと。

「自分の首に絡んでる、見えない鎖のことだよ」(『七夕の国』)。丸神(まるがみ)先生かっこいい(笑)。

グーグル:「七夕の国」