人は皆が思っているほどに賢くはない。でも皆が思っているほどに残虐でもない。だからこそ過ちを繰り返す。心が弱くて、優しくて、善意溢れる生きものだからこそ、人は互いに殺し合う。この本から これだけの文言を引用したところで、森さんの思想や姿勢が つたわるわけじゃない。この文言は ただ わたしが気にいって ひっぱってきただけだ。どんな主張や行動にも文脈があり、背景がある。メディアで えられる情報は、すべて きりとられて味つけされた断片にすぎない。そして、わたしが かいている この文章も。
これを本気で認めることは辛い。主語を一人称にしなくてはならないからだ。(8ページから)
最近、気になっていることがある。なにか主張めいた話をして、相手に反応をもとめる。すると、「まぁ気もちは わかるけど、そんな話、ほとんど だれも納得しないんじゃないかな」と。たとえば、差別について話をしたら、「でも差別は なくならないよ」と。そんな反応をもとめてるんじゃない。「わたし」は「あなた」に たずねてるわけで、「一般論」なんぞ もちださないでほしい。「あなた個人」が どう かんがえるのか、それをききたいのだ。社会をかえていく力は、それぞれの個人の意志と選択にこそ あるんだと おもう。自分の立場と姿勢を保留にしたまま、したり顔で「コドモをさとすオトナ」のような いいかたをする。これは いやだ。
森さんの本で、よく被害者と加害者の話がでてくる。「被害者の気もちは どうなるんだ」と きかれることが あるらしい。死刑制度について議論するとき、推進派が もちだす「当事者」は いつも被害者だけだ。死刑を命じる人、執行する人、死刑囚、死刑囚の家族は でてこない。自分が感情移入できるのは加害者だけだからだろう。そして、死刑制度を黙認している「わたし」や「あなた」という「当事者」の存在を意識せずにいる。
「ひとまかせ、ながれるままに」。
政治家も死刑執行人も みんなクジで えらんだら いい。それから、自分が たべる肉は自分で その動物を手にかければいい。なにも こわいことじゃない。これまで だれかに やってもらってきたことだから。原発の掃除も なにもかも。現実を、もうすこし間近で目撃できるようになるだけのこと。
と、最近かんがえたことを全部かいてみた。あはは。
かんがえるヒントになったもの:
ダグラス・ラミス 2004 『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』平凡社
森巣 博(もりす・ひろし) 2003 「死刑廃止に向けたメッセージ」『アムネスティ・インターナショナル日本 死刑廃止ネットワークセンター』
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