hituziのブログじゃがー

ツイッターは おわった。もっぺんブログの時代じゃ。

自分の問題として

その人の行動をみれば、自分と その人との ちがいが はっきり わかるように おもえてしまう。

「自分は あんなことは しないなぁ」と、だれしも感じるものだ。いってみれば、行動というのは「わかりやすい」のだ。今回の中国のデモをみながら、わたしをふくめた「日本人」は、「なんであんなに熱中できるのだろう」と疑問をいだいている(もちろん、そうじゃない人もいるだろう)。その行動について だれかと「かたりあう」とき、ある種の冷笑や みくだしが ともなったものになる(そうじゃない人もいるだろう)。行動に注目してしまうと、どうしても そういった つめたい まなざしをむけてしまいがちだ。

「集団心理と分類」というキーワードで今回のデモをよみなおしてみよう。そうすれば、ちがった視点が うまれるかもしれない。

◆集団心理というのは、2ちゃんねるの「祭り」でも みられるものだ。『電車男』が おもしろいのも、電車男とスレ住人との「一体化」にあると いえるだろう。歌手のコンサートで歌手とファンが一体化するのも集団心理だろう。◆分類というのは、たとえば図書館で本を整理するためにジャンルわけをすることなどが あたる。中国人と日本人というのも分類だ。

愛国心というのは、「自分の国」と「その他の国」を明確に区別することから はじまる。そして、「その他の国」のなかでも「敵の国」と「味方の国」というような分類をしている。わたしをふくめた「日本人」は、「自分は愛国心なんか もっていない」ということをしばしば口にする。ほんとうだろうか? おそらく、ある意味では ほんとうで、ある意味では錯覚だろう。

分類をするということは、だれかを排除したり、おとしめたりするということでもある。男と女で人間を分類できるという発想が、たくさんの人たちをくるしめている現実がある。分類というのは、なにかと問題をはらんでいる。だが、分類せずには いられない自分のすがたというものがある。これは現状肯定でも悲観でも なんでもない。とりあえず、自分のすがたをみつめようということだ。たとえ安易に分類したくないと おもっていても、無意識のうちに分類してしまっている自分のすがたがある。それをみつけたときに、どのように感じるのかが重要なのだ。そして、ひとつではない さまざまな分類の仕方をみつけていくことが たいせつなのだろう。

きのう チャットで、「反日」についての話題から「分類」についての話題にすりかえてみた。すると、じつに みのりのあるチャットになった。ちょっとした工夫をすれば、「自分の問題として」かんがえることは できることなのだ。
きょう、高橋哲哉(たかはし・てつや)さんの『戦後責任論』(講談社学術文庫)をかってきた。「戦後責任」をいきなり かんがえるのは むずかしいのかも しれない。けれども、きのう うけた印象では、それは不可能なことではない。

グーグル:「集団心理」 / 「分類するということ」 / 「戦後責任」