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畜産物と農産物は、質的に ちがうものだ

「わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ」という記事で、一見さんに「「人間は誰もが選択的に食事をしている。ベジタリアンもその一に過ぎない。」という主張は正しいと思いますが」というコメントをもらいました。

タカマサさんは、トラックバックの記事で(「「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」というのは正論だとはおもうが…」)で、「「ベジタリアニズムは人間集団に普遍的で、むしろ これから完全に自由な存在はほとんどかんがえられない」というべきだとおもうんだね。」とコメントされています。

あと、コメント欄では、
■ただ、「ベジタリアンである程度が、それぞれ ちがう」という論理は、食文化の連続性をのべただけで、性差などとならんで、思想的に一見ラディカリズムにみえても、現実の政治性には全然影響力をもちえないかもしれないような予感がする。■はっきり境界線があるって信じている層にとっては衝撃的でも、そういった虚構にきづいている層にとっては、「みんな、それぞれ恣意的に肉食タブーをかかえている」っていう、現実的次元では、ほとんど政治性をもちえない結論と同義になりかねないからね。
というコメントや、
「みんな自由放題に肉食できているわけではなく、無自覚なタブーにとらわれている」っていう、実に正論な人類学的総括は、結果的に、「みんな人類おんなじだ」という、きわめて非政治的なメッセージと大差なくなり、逆説的に、ものすごい政治性を発揮しかねないという、不安がぬぐえないね。
というコメントをもらいました。

ここで、フレーズをならべてみたいと おもいます。
「人間は誰もが選択的に食事をしている。ベジタリアンもその一に過ぎない。」

「ベジタリアニズムは人間集団に普遍的で、むしろ これから完全に自由な存在はほとんどかんがえられない」

「みんな、それぞれ恣意的に肉食タブーをかかえている」

「みんな自由放題に肉食できているわけではなく、無自覚なタブーにとらわれている」
どれにしても、どうでも いいはなしですよね。わたしが いいたいことが、こんなことであるなら。この程度のレベルであるなら。

こんな どうでもいいことを、わたしは いちいち論じたり、あれこれ放言したりはしません。
こんなふうに解釈されてしまったという意味で、わたしは 頭が わるいのでしょう。もうちょっと、きちんと つたえていくようにしたいと おもいます。


わたしが いいたいのは、「あなたもベジタリアンになれる」ということです。そして、すでにベジタリアンであるひとが、「なんちゃってベジタリアン」とか「エセベジタリアン」と自嘲的に自称する必要なんかないということです(「なぜ「ただのベジタリアン」には なれないのか」)。

つぎのタカマサさんのコメントは、ほんとうに そのとおりだと おもいます。
■だって、言語体系の連続性=非連続性と同様、微細な差異の蓄積による決定的な断絶とか、微細な差異自体が、ものすごい政治性をおびてきたのだから。■「よくみれば、みんな大差ない」という普遍的総括は、徹底的にラディカルに追及されればいいが、中途半端におわったときに、逆に最悪の差別化装置に転化しかねない。
どういう意味でか?


「資源を消費するという意味では、農産物も畜産物も、みんな大差ない」


こういう発想を、わたしは ぶっこわしたいのです。


スーパーに いってみましょう。いろんな商品がありますね。野菜もあれば、肉もある。どれも値段が ついてますね。そうです。野菜も肉も商品です。どちらにしたって、「たべもの」という点で おなじです。

そうです。そういう発想で、わたしたちの日常は なりたっています。農産物と畜産物のあいだに、質的断絶をみいださずにいます。これが、わたしたちの「たべるということ」の、いびつな政治性です。

『世界の水危機、日本の水問題』というサイトの畜産と工業製品とバーチャルウォーターのところに ご注目ください。

バーチャルウォーターとは、仮想水と訳されます。ウィキペディア - 仮想水をご覧ください。「仮想水(かそうすい、virtual water)とは、農産物の生産に要した水の量を、農産物の輸出入に伴って売買されていると捉えたものである。ヴァーチャル・ウォーターともいう。世界的に水不足が深刻な問題となる中で、潜在的な問題をはらんでいるものとして仮想水の移動の不均衡が指摘されるようになってきた。」とあります。

ここで、「農産物」とあるのは、仮想水の議論の一部であって、工業製品や畜産物の生産に要した水の量も ふくみます。

ウィキペディア - 肉食には、
牧畜は、大量の資源を消費する。特に、直接間接を問わず水資源の消費が膨大である。例えば、小麦を1キロつくるには2トンの水が必要で、10キロの小麦から1キロの牛肉が採取できるため、牛肉1キロを生産するには20トンもの水を使用している。
と説明されています。

これは、常識的なはなしのはずです。あれだけ おおきな動物をたべるのですから、それだけの資源を消費することくらい、だれだって、おりこみずみでしょう。「そんなの しってるよ」という声が きこえてきそうです。

それでいて、それでもウシをたべるんですから、おそろしい、いびつな社会だと おもうのです。現代人の生活というのは、ほんとうに、なにに注目してみても、おそろしいものです。


ベジタリアンも肉をたべると いいましたけど、「ニワトリとかは たべないけど、ウシだけは たべるベジタリアン」というのは、あんまり いないと おもいます。

なぜって、農産物と畜産物のあいだにある断絶を意識しているからです。けっして、それを連続体とは、みなさないからです。


草をむしるようには、動物をころせないというベジタリアン

あるいは、大量に資源を消費してしまう肉食には、制限をおきたいというベジタリアン


どちらでも いいです。そういうベジタリアンに、なりましょうよ。

「ウシは たべない」だけでも十分です。ベジタリアンするのは、「たまに」でも いいです。「なるべく」でも、「なんちゃって」でもいいです。

農産物と畜産物を同列に とらえるのは、もう やめましょうよ。


これを いうためにでなくて、どうして、「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」とか「わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ」とかって いう必要があるでしょうか。